4月19日、ほぼ毎週訪れている藤沢市女坂からの帰り道、藤沢市打戻2662の延喜式内社「宇都母知神社」に立ち寄りました。


る


慶応大学藤沢キャンパス近くに、延喜式内社相模国十三座の一座に数えられる宇都母知(うつもち)神社がある。 雄略3年(459年)頃、古墳時代(大和時代)の創建、「日本総国風土記」に厳粛な祭祀を行う記載あり。 「相模国鷹倉郡宇都母知郷」に鎮座。 ※相模乃国一宮の寒川神社と同じように、少なくとも1,600年近く前からある古社である。 中原街道と大山街道が交差する用田の近くで、交通の要衝でもある。 中原街道から遠藤宮原線(県道410号)に入り、宇都母神社入口の信号を右に曲がる。(慶応大学藤沢キャンパスの手前) 付近にはガラス温室団地や養豚団地が並んでおり、花苗の直売所や四元豚のレストランもある。 右方向(東)には、富士山と大山がきれいに見える「富士見の丘」がある。 彼岸花で有名な小出川の対岸には、ヤマトタケルが立ち寄ったとされる腰掛神社もある。 17~8年前程前になるが、植物工場学会の施設見学ツアーで辻堂駅前からバスに揺られて着いたところが㈱永田農園さんの施設で、見覚えのある景色・場所で驚いたことがある。 ということは20年近く、用田や葛原・女坂の地に、毎週のように訪れていることになる。 この辺りは藤沢市内でも古代から人が住んだ地であり、故郷の様な親しみを感じる。

『JINさんの陽蜂農遠日記』藤沢・打戻散歩(その1):宇都母知神社2016.10.04 https://plaza.rakuten.co.jp/hitoshisan/diary/201610040000/ 土地改良事業完成記念碑、「甦る大地 藤沢市長 葉山峻 書」 郷土の鎮守、宇都母知神社が鎮座する、藤沢市打戻字大仲及びそれに接する宮台、大谷戸、根下、 矢崎の地は、原始の昔より農耕が営まれてきたが、畑地は傾斜地が多く狭隘であり、山間に位置 した水田は強度の湿田で生産力も低く、長い間耕作農民を苦しめ、経営の伸展を阻害してきた。 昭和四十八年、藤沢市が国の施策である第二次農業構造改善事業を導入するに及び、当地の地権 者百十二名は、この事業の実施推進によって生産基盤の改善と経営の安定を計るべく、度重なる 協議を経て、土地改良区の設立に踏み切った。 以来十年間の歳月を費やし、本土地改良区は、県、市、農協等関係機関の懇切な指導と地権者及 び役員の溢れる熱意により、幾多の困難を乗り越えて、事業費二億七千万円、総面積四千五ヘク タールに及ぶ土地基盤整備事業を完成させ、更にその耕地内の二千ヘクタールを対象に、事業費 四千五百万円をもって畑地灌水施設を完工し、また、ガラス温室団地及び養豚団地を配置するを 成し得た。これにより、改良地区の中心部を通る、工費六千万円をもって完全舗装された延長千 百三十六メートル、幅員七・五メートルの幹線道路をはさんで、農耕地は平坦にして整然と区画 され、どの耕地も巾四メートル以上の農道に接する、良好なしかも早害の懼れのない近代的農耕 地に生まれ変わった。この改良事業は、今後当地の農業経営の合理化と発展に寄与するところ限 りないものがあると思われる。 思うに、当地の農耕の遥かな歩みの中で、本事業はまさに歴史的かつ画期的な大事業であったと 言うべく、本土地改良事業の完成にあたり、その大概を記して、後世に伝えんとするものである。 昭和五十八年一月 藤沢市打戻土地改良区

記紀に親しむ・奈良県公式ホームページwww.pref.nara.jp/koho/kenmindayori/tayori/t2012/tayori2405/nara_kiki2405.htm 〈采女(うねめ)の寿歌(ほぎうた)〉 雄略記には、泊瀬(はつせ)(長谷)の百枝槻の下での新嘗祭(にいなめさい)(収穫感謝祭)の宴会の折り、伊勢国三重出身の采女の不注意に怒った天皇が、采女の気転の利いた寿歌を聞いて許した話を伝える。 ある時雄略天皇は泊瀬朝倉宮の四方に枝を張った百枝槻、すなわちケヤキの巨木の下で新嘗祭の宴をした。宴席に仕えた三重の采女が、酒を天皇に献げたとき、杯にケヤキの落葉が浮いているのに気づかずに差し出した。落葉を見た天皇はたちまち采女を打ち伏せ、首を切ろうとする。すると采女は「殺さないでください、申しあげたいことがあります」と言い、四十五句に及(およ)ぶ歌を、おおよそ、「纒向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)(この物語では泊瀬の朝倉宮とあるべきところ。景行(けいこう)天皇関係の物語を流用したものか、日代宮とする。)は朝日夕日の照らすめでたい宮、竹や木が根を張るようにしっかり築かれた宮です。新嘗のための桧(ひのき)の門をもつ御殿の側に生えている枝張のよいケヤキ、上・中・下の枝はそれぞれ天・東・地方をおおっています。その上の枝の葉が中の枝の葉に、さらにそれは下の枝の葉にふれ、生命力を移し濃くしています。その生命力に満ちみちた葉が杯に浮かび、酒を木の生命力で満たしていますので、どうぞ召し上がってください」と歌ったのを聞いて、天皇はその采女の罪を許したという。 〈雄略天皇のイメージ〉 雄略天皇は記・紀ともにエピソードの多い天皇で、ともに我が儘(まま)で、仕える者に厳しく、すぐ殺意をみせる専制君主として描かれる。ただ記・紀の伝えるイメージは少し異なる。紀ではいさめの言葉を受けいれる場合もあるが、無用の殺戮(さつりく)をする酷薄さを強調する。これに対し、記はこの話のように相手を許し、憎めないところもある天皇として描く。 三重の采女の寿歌の発想は、前にもふれた(「県民だより奈良」2011年 9月号参照)「人間の生命は植物の生命と交感する」とする古代信仰に基づき、天皇もこれを受け入れている。宴の場としてケヤキの巨木の下を選んだのも同じ信仰であろう。この話は雄略天皇の人柄とともに、場に相応しい気転の利いた言葉・表現の大切さも語る。テレビタレントたちの得意とする「言葉の技」である。その技のない者はこうした時代に生まれ、暴君に仕えておれば、命がいくつあっても足りなかったに違いない。


公益財団法人 藤沢市まちづくり協会 打戻のおはなし https://f-machikyo.or.jp/archives/uchimodori/ 打戻(うちもどり)は、御所見(ごしょみ)地区で一番早く拓けたとされる。 その名の由来には諸説あり、よくいわれている説は、養蚕の神様が祀られている宇都母知神社の宇豆毛遅(うずもち)が訛ったもの、また「ウツ」と「モチ」には「小さな盆地」という意味があり、周辺の地形から呼ばれたものであるというものである。別の説では、海老名の刀鍛冶屋が、鎌倉へ向かう途中にこの地で休憩し、納める刀を見つめ、持ち帰って打ち直すことにしたためついた名であるというものもある。 大山や富士山を眺めることの出来る高台に位置し、農業や養蚕が盛んで、江戸時代には助郷役(宿駅の人馬不足の補充)に指定されていた。 大正時代末に農地の水不足を解消するため、人工的に「ため池」が掘られた。その池は現在、藤沢市少年の森の施設内に「みどりの泉」として残っている。 ※神社のある場所は丘の上であるが、大字打戻(宇都母知郷)のあたりは泉の湧く小出川の水源地になっているので、盆地の様な地形と言えないこともないが・・・・,海老名の鍛冶屋の話は後付けと思われる。

鳥居建設記念 平成天皇の御大礼を記念して鳥居の再建を行う 往時は木製の鳥居であったが大正7年に・・岩で建設された 大正12年の震災により笠木破損し修理が行われた・・・・ この為氏子一同の総意により寄進するものである 平成2年9月吉日

「冠婚葬祭表書き特集 日本のしきたり」 昭和57年2月1日改定発行
著 者:松田南窓 発行者:林久利 印刷所:東京アート印刷

定 1.車馬を乗り入れること 1.魚鳥を捕らえること 1.竹木を伐ること 1.喫煙をすること 右域内において禁止する 延喜式内社 宇都母知神社





宇都母知神社 御祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 伊弉諾、伊弉冉二神の生み給う方で、高天原を治められ、神徳宏大で、人々から敬われ、日の神と称 され奉られた。 稚産霊神(わくむすびのかみ) 豊受大神の御親神で五穀や養蚕を司る神様です。 若日下部命(わかくさかべのみこと) 仁徳天皇の皇女で、雄略天皇の皇后になられた方で、非常に人徳の高い方で、養蚕を奨励された。 境内神社 菅原神社 御祭神は菅原道真公で、学問の神様 稲荷神社 御祭神は倉稲魂神で、農業、商工業の神様 由緒 当神社は創立年代は詳らかではないが、延喜式内社で十一代雄略天皇の御代 皇紀一一一九年( 西暦四五九年)に厳粛な祭祀が行われたことが、日本総風土記に記されている。 風土記によると当神社の所在地は相模国鷹倉郡宇都母知郷にあったとあります。 六十一代朱雀天皇、天慶二年九月(皇紀壱五九九年、西暦九三九年)若日下部命の御尊霊を大和国泊瀬 より遷座して相殿に奉祀された。 九十代伏見天皇、正応🉁年八月(皇紀一九五〇年、西暦一二九〇年)鎌倉八代将軍久明親王の執権北条貞時が社殿を改築し、同年9月に参拝された。 寛永四年十一月(皇紀二二八七年、西暦一六二七年)領主高木主水源正次が社地九百坪(約三千平方米)を寄進 し、又、本殿の改築を行なった。 当神社は明治六年十二月郷社に列せられた。 大正十二年の関東大震災により社殿等全てが倒壊したが、村人全員が総力をあげた努力により、倒壊 後わずか三年の大正十五年九月に全てが、現状のように再建された。 境内地は一丁五反(約一万五千平方米)で全域風致林の指定を受け、自然環境保全地域に指定されている。 打戻字大平二〇〇九番地には溜池一反五畝(約百五十平方米)の社有地がある。 社務所・参集殿等の建設を記念して、この碑を建てる。 平成十六年九月吉日


千木の外削ぎ(男神)、内削ぎ(女神)の区別や鰹木の本数(社格)と奇数、偶数の区別については俗説らしい。

※神社名の「うつもち」については、万葉仮名で表記されており、相当古くから(古墳時代、雄略天皇457年に厳粛な祭祀)あったものと考えられる。(この地を治めていた地方豪族に由来か? 全国制覇の為に皇祖神を祭ったのか? この時期から中央集権体制に移行した) 個人的には、古墳時代は最も興味のある時代である。 Web情報を調べていたら下記の記事があった。(記事も写真も充実している) 湘南人 湘南エリア最大級のニュースメディア https://shonanjin.com/news/fujisawashi-utsumochijinja/ 神社の歴史とロマンに思いを馳せる 神社のなりたちについて、宮司の御厨さんよりいろんな話をお伺いすることができました。 まず「宇都母知神社」の神社名は日本に一社だけで、どこか別の場所から移ってきたわけでもなく昔からこの地にあったのだそうです。また、ここ藤沢の打戻(うちもどり)という地区名の語源は、神社名の(うつもち)がどんどん変化していったものではないか?とも言われています。※他にも諸説あり 「神社名である「宇都母知(うつもち)」という漢字から何を想像しますか?」と宮司さんから突然のクイズ。 たまに参拝者にもこの質問をされるそうです。 一つ一つの単語を「宇宙」や「京の都」となぞらえていくとなんだか壮大で偉大で揺るぎないものに思えてきました。 「これは想像でしかありませんが、古代の人々がそういう意味をもってこの漢字を当てたのではないかな?と私は思ってます」と宮司さんは言います。 はるか遠く昔のこと、誰も真実が分からないその歴史の深さにロマンを感じます。







相模乃国 沿革 (Wikipediaより) 相模国は古墳時代の成務朝に成立した相武国造(さがむ-)の領域(相模川流域、県中央部)と師長国造(しなが-)の領域(酒匂川流域と中村川流域、県西部)を合したとされる。さらに、ヤマトタケルの子孫である鎌倉別(かまくらわけ)の支配する鎌倉地域と三浦地域も加わる。 なお、もとは武蔵国と一つだったという説がある。賀茂真淵や『倭訓栞』には、身狭(むさ)国があり、のち身狭上・身狭下に分かれ、語の欠落などでそれぞれ相模・武蔵となったとする。本居宣長は『古事記伝』で、佐斯国(さし-)を仮定し、佐斯上、身佐斯と分かれ、そののち相模・武蔵となったという。近藤芳樹『陸路廼記』などによれば総国(ふさ-)の一部が総上・総下となり、のち相模・武蔵となったとされる。しかしこれらの説は、武蔵国がかつては毛野国(群馬県・栃木県)地域と一体であったとする考古学の成果と合わない。 国名の語源は不明。熱海と熱川から流れた水が冷え、寒海(さがみ)寒川として対比させた地名とする説や、前身とされる身狭上(むさがみ)・佐斯上(さしがみ)が由来とする真淵や宣長の説もあれば、古代この地域の産物であったカラムシ(苧・麻布などの種)が訛った「ムシ」に由来するという説や、「坂見」の転訛(箱根の坂の上から見える地域)という説なども存在し、定説が確定できなくなっている。 ※「相模国鷹倉郡宇都母知郷」については、鷹倉→高座(たかくら)→高座(こうざ)となり、宇都母知(うつもち)→打戻(うちもどり)となったと考えられるが、宇豆毛遅(うずもち)と共に、「ウツモチ」の語源は全く不明であり、いつかは解き明かしたい謎である。 古語辞典によると、「打つ」は、「たたく。ぶつける。打ちつける。」の他に「布を砧で打つ。(仮設物を)設ける。耕す。勝負事をする。(動坑、興行などを)する。など」の意味があるようだ。ただし、「打つ」という漢字にとらわれる必要はないと思う。 “うつわ”の語源に秘められた日本人の精神性 https://h-utsuwa.com/ また、「うつわ」は一見、単なる容器や入れ物を指す言葉かと思われますが、その根底には深遠な東洋的思想が込められています。「うつわ(器)」「うつろい(移)」「うつつ(現)」「うつくし(美)」といった「ウツ―」から始まる言葉は共通して、この思想をベースにしています。 相模国 神社祭礼 https://eda.mydns.jp/taiko-2008/uchimodori.html 宇都母知神社 「宇都母知(うつもち)神社」はその西方わずか1kmのところに名神大社の寒川神社が鎮座しているのにもかかわらず、『延喜式』所載の神社として昔から崇敬され、中央政府から幣帛を供せられていた。その理由は当社の所在地が古代より養蚕の盛んなところと知られ、当社はそこにある氏神として中央にも聞こえていたと推測される。『延喜式』のなかの主計式をみると、相模国に課せられた調として綾(あや)十八疋(ひき)・橡帛(しょうはく)十三疋・黄帛(こうはく)十三疋などをあげ、「自余は?布(しふ)を輸(いた)せ」と記してあるから、相模国の調としては絹類が主体であった。養蚕地の宇都母知においてもとうぜん機織が行われ、相当量の絹織物を産出していたものと思われる。(以下省略) 打戻 打戻(うちもどり)という部落は昭和30年(1955年)4月に藤沢市が渋谷町・御所見(ごしょみ)村・小出村を合併するまでは、御所見村に属していた。その御所見村は明治22年(1889年)に打戻・葛原・用田の三村が合併してできた村である。 打戻は現在「ウチモドリ」と呼ばれているが、本来の地名は社名と同じく「ウツモチ」であったのを、打戻という字を当てるようになって現在のような呼称に変わったものと思われる。ウツモチのウツはウチに同じく、モチは古語で「小さい盆地」という意味である。 この打戻あたりの地域は「和名抄」のどの郷に当たるかについて、吉田東伍氏は御見所村・有馬村などは「渭堤(いで)郷」に含まれると推定している。渭堤はイデとよむがこの字は当て字に過ぎずない。山城国・駿河国その他に「井出」の地名があり、相模国高座郡の渭堤郷も同じ意味で、おそらくむかしこの辺りに大きな泉が湧いていて、人々がそれを利用していたことが地名の起源であろうと思われる。いまでも小出川という川が打戻の北と東の二ヵ所から発源して南流し、相模川の河口で同川に注いでいるが、その名は「小渭堤川」の意と思われる。 「海老名」地名の由来https://www.city.ebina.kanagawa.jp/shisei/profile/aramashi/1000573.html 地名の由来は不明とせざるを得ませんが、『有鹿神社縁起』に「この郷本源入江にして…殊に海老の大なる有るを以ってこの海より美名得るなり」とあることから、かつて入江に大きな海老が生息していた土地の意ととる説があります。しかし、これは説話として受けとっておいた方がよいでしょう。 語源的にいって、エビはイビ(ユビ)と同じく「節があって曲がっているもの」をあらわす語だといわれています。そこから転じて、「階段状の地形」を意味する地名語となったと思われます。すなわち、エビナは「段丘崖の目立つ地」ということになります。 また、エビをイビの転訛とみる場合、イビはイボと同じく「怒る」「荒れる」という意味の方言として、各地で使われています。この説を採れば、「川が怒って(氾濫をおこして)できた土地」ということになります。 いずれにしても、エビナ地名は平安中期から用いられていて、はじめは狭い小地域を指していましたが、やがて周辺の地名に拡大し、さらには郷名にまでなったものと思われます。 (海老名市史叢書7『海老名の地名』より抄録)2020/04/01 有鹿神社(Wilipediaより) 有鹿神社(あるかじんじゃ)は、神奈川県県央に流れる有鹿河(出典:『惣国風土記』による。現在の鳩川)沿いに形成された地域(有鹿郷)に鎮座する神社。奥宮は相模原市南区磯部に鎮座している。「お有鹿様」とも呼ばれる。一説には阿波の忌部氏が当地にて祖先を祀ったのがはじまりとされる[要出典]。 延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)とされ、さらに同国の五之宮ともされる[1]が諸説ある[注 1]。旧社格は県社格の郷社。 神社本庁包括下にあり、神奈川県神社庁に所属する神社である。現在、海老名の総氏神となっている。 寒川神社の由緒書に「有鹿老 (あるかのおゆ)」という「有鹿の先輩」「有鹿神社の方が由緒がある」という意味の記載がある。寒川神社ではその由緒書を亡失した(出典:『鷹倉社寺考』)。 この他、2017年6月10日にメディアに初登場したキャラクター『パンダ宮司』も有名である。 歴史 草創 有鹿は、古代語の水の意味であり[要出典]、鳩川沿いに形成された地域を有鹿郷という。有鹿神社のご神体は、相模原市南区磯部の勝坂にある泉湧く洞窟。奥宮のある地域周辺は、国の史跡に指定されている勝坂遺跡であり、有鹿祭祀遺跡からは、5世紀前半から7世紀前半の銅鏡、子持勾玉、管玉、石製玉類、石製祭具などが304点出土している(出典:相模原市HP )。また、本宮も境内周辺の河原口坊中遺跡より弥生時代の小銅鐸、銅鐸形土製品、卜骨などの祭器類、多量の土器、石器、木器等の遺物が出土しており(出典:全国遺跡総覧)、同じく祭祀が行われていたものと思われる。この他、有鹿神社の創建に関わると考えられている有力者の古墳有鹿丘[要出典]より、ヘラジカの骨が出土しており、それが名前の由来になった可能性もある[要出典]。






国文研データセット 養蚕秘録 享和3 (1803)年刊統一書名(統一書名よみ):
養蚕秘録(ようさんひろく)
記載書名連番 記載書名表記 記載書名よみ 記載書名種別:
1 扶桑國第一産/養蠶祕錄 ふそうのくにだいいちさん/ようさんひろく 見・外||2 養蠶秘錄 ようさんひろく 序首||3 養蠶祕錄 ようさんひろく 目・跋首||4 養蚕秘録 ようさんひろく 尾
記載著者名表記 記載著者名よみ 他等 役割 伝 記載著者部編等:
上垣/伊兵衞/守國 作 ||法橋/西村/中和 画 ||速水/春𣉊齋 画
解題:
日本・中国の養蚕のはじまりから書き起こし、養蚕の課程を絵入りで詳しく解説した書。奥州・丹波など各地域での手法の違いも図示、末尾に中国の故事を記す。養蚕書の白眉と言われ、広く読まれた。また、シーボルトの持ち帰った書は19世紀にフランス語やイタリア語に翻訳された。
注記
:〈版〉須原屋平左衛門に印あり。〈伝〉(印記)「川西守屋蔵」。
※日本の養蚕の事之始めに天照大御神、保食神、稚産霊神(豊受大神の祖神)、若日下部命(仁徳天皇の皇女で雄略天皇の皇后)が出てくるので、養蚕に関わる神社とみて間違いない。 なお、保食神は、古事記では大宜都比売(オオゲツヒメ)で、スサノオに切られる。
保食神(Wikipediaより)
保食神(うけもちのかみ)は、日本神話に登場する神である。『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。神話での記述内容[1]から、女神と考えられる。
出自
オオゲツヒメという名称は「大いなる食物の女神」の意味である。『古事記』においては、まず伊邪那岐命と伊邪那美命の国産みにおいて、伊予之二名島(四国)の中の阿波国の別名として「大宜都比売」の名前が初めて現れる(『古事記』では、四国は島のみならず一身四面の神としても表現されている)。そしてその直後の神産みにおいて、他の生まれいづる神々に混じってほぼ同名といえる「大宜都比売神」が再度生まれている記述がある。更に高天原を追放された須佐之男命に料理を振る舞う神としても「大気都比売神」が登場する。これらの神が同一神か別神かは明らかにされていない。
説話
高天原を追放された須佐之男命は、空腹を覚えて大気都比売神に食物を求め、大気都比売神はおもむろに様々な食物を須佐之男命に与えた。それを不審に思った須佐之男命が食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。須佐之男命は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売神を殺してしまった。すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。これを神産巣日御祖神が回収した。
大宜都比売命 (おおげつひめのみこと) – またの名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)あるいは大粟比売命(おおあわひめのみこと)とされる。
社伝によれば、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。
神話での記述
天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに分かれて出るようになったのである。
天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。その種は秋に実り、この「秋」は『日本書紀』に記された最初の季節である。また大神は蚕の繭を口に含んで糸をひき、これが養蚕の始まりとなった。牛馬については特に説明されていない。
※(メモ)「うけもちのかみ」⇒「うつもち」になったのではないか?
Wayback Machine 養蚕https://web.archive.org/web/20171222052257/http://www.silk.or.jp/silk_gijyutu/pdf/zentai.pdf (p7)第2。養蚕の伝搬 倭国(九州):243~250A.D 倭国(機内):4C後
養蚕業 – Wikipedia 日本の養蚕 195年には百済から蚕種(さんしゅ=カイコの卵)が、283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えるなど、暫時、養蚕技術の導入が行われた。
扶桑|一般財団法人 懐徳堂記念会|大阪大学文学部内|大阪府豊中市
その昔、本邦の西国に「扶桑木(ふそうぼく)」と称する大木があり、外国の船がはるかにこの扶桑を認めて、日本の目当てとしたことから日本を「扶桑国」と言った、という俗説があります。また、中国のある字説に、太陽が木の下にあるのを「杳(ヨウ、くらい)」、木中に昇るのを「東」、木の上にあるのを「杲(コウ、あかるい)」とし、そこで言われる木は中国の東方の島(日本)にある「扶桑」であるとしています。
中井竹山は、これらを俗説とはしながらも、上古の日本に巨木があったことは事実であるとして、巨木伝説を紹介して考証した『扶桑木説(ふそうぼくせつ)』を書いたのです。
なお、この画像は、竹山の弟・履軒の『左九羅帖』(VOL.3参照)に描かれた「扶桑木」です。巨大な木の根元に米粒ほどの人々が描かれています。
秦氏についておしえてください。 – 日本の歴史に大変興味があります。今… – Yahoo!知恵袋
秦氏についておしえてください。
日本の歴史に大変興味があります。今は神社に興味があります。秦氏と伊勢神宮には何かしらの関係があるのでしょうか?全く分からないで言うので、関係なかったらごめんなさいなんですけれど、神奈川県には、秦野市と伊勢原市が隣接していて、大和市もあります。こういった名称は、そういった古代の日本とかかわりがあるのでしょうか?よろしくお願いします。
ベストアンサー astさん 2013/9/18 15:04(編集あり)
イエスキりストを祭っていると思われる伊勢神宮は秦氏と直接関係が有ります。
これを守っているイザヤ一族の拠点は伊勢神宮と一体にありますが、伊雑宮(いざわのみや)と称します。
(おそらく古事記などに出てくるイザナギやイザナミなどと関係有るのでしょう)ちなみにその紋章はダビデの六芒星です。
この神宮を整備したのは秦氏であると言われています。その後これを本尊として日本の天皇制を整備し現代に至っています。
神奈川県の秦野市は平塚と大磯の間を流れる金目川沿いに移動してきた秦氏が拠点を構えたところです。
ユダヤ教では山は神様の降り立ち宿る神聖な場所でこれをお参りする目的で神社が作られていました。
古代イスラエルにはこうした有名な山がいくつかありましたが、その中でも重要なものがモリヤでした。
日本に渡来した初期の弥生人と呼ばれている種族らは、旧約聖書による信仰を長い間保っていました(現在の神道)。
現代でも諏訪湖の諏訪神社では対岸にある守屋山を拝み、旧約聖書にのっとったお祭りを行なっています。
秦野市は丹沢の大山のふもとにある市ですが「大山(おおやま)」は偉大なる山という意味です。
伊勢神宮は正式には「神宮」です。これと同じで名前の無い「山」です。
これは山(縄文時代はアンヌプリ)は神様が降り立ち宿る神聖なものであったため「偉大なる山」と呼んでいたためです。
アンヌプリはアプリと転化し、現在は「あぶり神社」と呼ばれる山頂の神社に名前を残しています。
関東平野南部の平塚、相模原、横浜西部などから見ると、相模湾に向かって切り立ったその姿が一段と目だって見えます。 秦野市に隣接する伊勢原市から平塚市、海老名、茅ヶ崎市には重要な古墳や史跡が点在します。しかしほとんど日本史からは無視されているので、保存状態は悪いのでいつもそうした場所の近くを通るときには、なんとかならないかと心配しています。
伊勢神宮の中と同様にイエズス川(五十鈴川)も流れています。しかし9世紀ころの貞観大地震に関連する富士山の貞観噴火でこのあたり一体は100年間ぐらい火山灰が降り続き農地や御所は全滅してしまいました。 伊勢原には3の宮、相模川対岸には1の宮、海岸付近には2の宮が作られました。
秦野市から南方向の中村(現中井町)には五所の宮や公所などという地名があります。
丹沢東部にある日向薬師には大きな像が多数ありますが、その姿はまさに大陸から来た部族の姿をうつしたものです。
ここは秦氏の一族のお墓を守る場所のようなものでした。 資料によればその周囲には渡来人の墓が沢山あったようですが、いまではほとんど消滅し、仏教のお寺に改造されてしまったようです。 おそらく西の大和朝廷が東のこの地域を整理してしまい、京都を中心とした日本の支配体制を確立していったのではないでしょうか?
(なお以前私自身が不勉強な時に同じような質問を出したことが有りますので、参考にしてください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1088320675
(補足)
後の回答者の中に「秦野市役所が秦氏とは無関係だ、と公表している」と記されていますが、この回答の内容は間違いです。
正しくは「秦野市役所は秦氏が秦野を拓いたと書いてある書類は見つかっていないと言っている」というだけです。
誤解を与える恣意的な回答はご注意下さい。
「秦野(はだの)」の由来
(秦野市役所のホームページからの引用)
「秦野市の「秦野」という名称の由来については、いくつかの説があります。古墳時代にこの地を開拓した人々の集団「秦氏」(養蚕・機織りの技術にすぐれた渡来人の子孫の集団)の名に由来しているという説もそのひとつですが、現在のところ文献や考古資料から古代に秦氏がこの地を開拓したという証拠はみつかっていません。平安時代に書かれた「倭名類聚抄」に秦野の古名は「幡多」だったとの記載がはじめて文献にあらわれます。鎌倉時代に入ると「吾妻鏡」や「保元物語」などの軍記物語に、平安末期にこの地の地名を名乗った「波多野氏」が登場します
===引用終わり
ようするに、文献上は「秦野の昔の名前はハタだった」ということが書いてあり、
「その後、色々とハタにちなんだ人が関係者として現れる」、とも書いてあると言っているのです。
つまり、(1)平安時代以前の昔はその地はハタと呼ばれていて、その後ハタという名前の人がいろいろと関係している。
(2)「秦氏が秦野の名前のいわれである」と書いてある書類が見つかっていないので、書類重視のお役所仕事では何もいえない
、、ということです。
