4月30日、買い物の前に戸塚区平戸3丁目54-1の萩原代官屋敷・道場跡と平戸4丁目6-45の品濃一里塚を訪問しました。




戸塚区不動産センター トップ > 戸塚区探検日記 > 萩原代官屋敷・萩原道場跡萩原代官屋敷・萩原道場跡(写真は省略し、記事のみ引用、改行、句読点を改変しています) ※ぜひ、オリジナルページをご参照ください。 新撰組の近藤勇も訪れた 萩原道場の跡地が戸塚の平戸にあります。 東戸塚駅から歩いて15分くらい、住宅街の側道を入っていくとあります。 こんなワクワクするような 道を入っていくと ありました。 『真心影流』という流派の道場で、入門者は225名いたそうです。 そしてその中に、近藤勇もいたとのこと。 ここで剣の腕を磨いたのでしょうか? この場所で立ち合いなどしたのでしょうか? ロマンを感じます。 立派な木もあります。 この木を相手に、剣の素振りなんかも したのかもしれません。 萩原代官屋敷の萩原さん、こちらの方は旗本の杉浦さんに仕えた代官で その萩原家の幕末の時代の当主が、先程の『真心影流』の免許皆伝だったとのこと。 お屋敷も立派です。 周辺も竹林で囲われていて、とても雰囲気があります。 住宅街にあるのですが、当時の剣客たちのことを思いながら 歩いていると、 竹藪から切りつけられそうな 気分になってきて身が引き締まります。 住宅街にまだ残る歴史的な痕跡。東戸塚のこの周辺は歴史スポットが多く、 駅前の賑わいとの対比が面白いです。 まだまだ戸塚の歴史を探検していきたいと思います。

タウンニュース 戸塚区区・泉区版 公開:2021年6月17日 https://www.townnews.co.jp/0108/2021/06/17/578920.html とつか歴史探訪 ■〜旧東海道・戸塚宿を訪ねる〜第64話 〜剣豪と萩原代官屋敷・道場跡〜 萩原代官屋敷・道場跡 旧東海道沿いの境木地蔵前の細い道を下り、竹林の中の更に細い道を抜けると江戸時代から残る萩原代官屋敷の門が見えます。 萩原家は徳川幕府の旗本杉浦氏の代官職でした。旗本とは将軍直属の家臣で、一万石未満の報酬を得て将軍に謁見できる者をいいます。萩原家はその領地の一つである平戸村の代官としてこの地に屋敷を構えました。代官は勘定奉行に属し、年貢などの収納や警察、民事・軽犯罪の裁判などの職務に当たります。このことから代官屋敷内には、お白州(法廷)、石だたみ、牢屋などもありました。 幕末、当主であった萩原太郎行篤(ゆきあつ)は、千葉周作(北辰一刀流)などと同時代の名剣士と全国的に知れ渡り、嘉永4年(1851)に直心影流の免許皆伝を得て道場を開きました。道場は門の右側にあり、今はその痕跡はありません。萩原道場は慶応2年(1866)までに225名の門下生を輩出したそうです。明治45年(1912)に造られた行篤を顕彰する「剣道師範萩原君碑」が門に向かって右斜め後方の旧矢場の林の中に立っています。 萩原家所蔵の「剣客名簿」には安政5年(1858)、後に新撰組の隊長となった24歳の近藤勇が他流試合(道場巡り)でこの道場を訪れたことが直筆で残されています。ただ近藤勇は行篤にあえずに署名だけ残して去ったようです。実際に会ったらと思い巡らすだけで胸が躍ります。


戸塚パルソ通信@メール 第130号 https://www.totsuka-pallso.jp/mailmagazine/yado/130-2.html 戸塚宿を行く(歴史探訪)vol062-1 近藤勇も訪れた 萩原代官屋敷・萩原道場跡(1) 東海道の要所であった境木立場。境木地蔵や焼餅坂が賑わう街道沿いから一歩裏手に入った場所に、萩原代官所・萩原道場跡が残ります。 立場(非公式の宿場)ながら、大名も宿泊したという境木ですから、治安維持のために必要だったのでしょうし、場合によっては、大名の不審な動きを探る役割もあったのでしょう。 萩原家は、旗本杉浦家の代官で、杉浦家の所領の一つである平戸の支配を任されていました。 幕末の当主である、萩原行篤は、嘉永4年(1851)に直心影流の免許皆伝を得て、代官所に道場を開いたとされます。 入門者は200名を越え、大いに栄えたと言います。 また、現在の平塚、茅ヶ崎、寒川にも門弟を抱え、出稽古を行っていたとのことですが、これらには杉浦家の飛地の所領があり、現地の代官との情報交換もおこなっていたことでしょう。あるいは、萩原家は、それらの土地の支配も任されていたのかもしれません。 萩原道場は、交通の要衝にあり、江戸からも近かったことから、多くの剣客が訪問し、切磋琢磨していました。 安政5年(1858)の8月には、のちに新撰組を率いることになる、天然理心流の近藤勇が訪れたことがわかっています。



萩原代官屋敷・萩原道場跡(2)|戸塚宿を行く(歴史探訪)|☆戸塚パルソ通信☆|とつか街ネタ!モノコト応援倶楽部 (萩原君碑の記事のみ一部引、写真はオリジナルページを参照ください)
近くに、幕末ー明治に活躍した萩原家の当主・行篤を顕彰する「萩原君碑」という石碑があるとのこと。探してみると、、ありました。萩原行篤が、幼少の頃から武勇の誉高く、維新後は神奈川県警に奉職し、皇族の前で演武を行う栄誉を得たことなどを顕彰する内容です。行篤没後に、門弟が願い、建立されたとあります。 萩原君顕彰碑のすぐ側に、萩原家類代と思しきお墓がありました。









現地の案内板より 品濃一里塚 慶長9年(1604)徳川幕府は、五街 道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の 円滑を図りました。 それと同時に、当時あいまいであった 駄賃銭を決めるために、江戸日本橋を起 点とした距離が判るように、 明確な里程 標が必要となりました。そのため街道の 両側には、一里(約4キロメートル)ごと に5間(約9メートル)4方の塚が 造ら れ、塚の上にはエノキやマツが植られま した。これが一里塚です。 一里塚は、旅人にとって旅の進みぐあ いがわかる目印であると同時に、塚の上 に植えられた木は、夏には木陰をつくり、 冬には寒風を防いでくれるため、旅人の 格好の休憩場所にもなりました。そのた め、一里塚やその付近には茶店ができ、立 場が 設けられるようになりました。 ここ品濃の一里塚は、日本橋から九番 目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間 に 位置しています。旧東海道をはさんで ほぼ東西に2つの塚があり、地元では一 里山と呼ばれていました。東の塚は平戸 村内に 西の塚は品濃村内に位置し、西の 塚にはエノキが植えられていたようです。 このように、今でも道の両側の塚がと もにほぼ当時の形で残っている所は、神 奈川県内でもこの一里塚だけであり、 昭和41年には県の史跡に指定されま した。 横浜市教育委員会 平成7年6月
