5月10日、いつもの藤沢市葛原&女坂の地をを訪問の後、海老名市上郷1-4-41にある相模國延喜式内社の「有鹿神社まで足を延ばしました。「有鹿(あるか)神社」は神奈川県内で最古の神社と言われています。






水源地の相模原市磯部(勝坂遺跡,6km上流)には奥宮(石祠)があり、中流(0.6km上流)には中宮があるるらしい。地図の下の方には条里制の区割りが見える。

有鹿神社公式サイト https://www.arukajinja.jp/ 有鹿神社は神奈川県のへそ(中心)として、太古より大地から生命の息吹を発する地です。 親しみをこめて「お有鹿様」と呼ばれてきました。お有鹿様は人間をはじめ動植物の生命を大地に生み出しこれを生育し、また、災厄を祓い清め活力を与えて来ました。 有鹿神社は相模国で最古の神社です。電話046-234-4763 有鹿神社本宮 ~有鹿神社~ 有鹿神社は、有鹿郷(海老名市を中心とする地域)にある神社です。奈良・平安の昔には、相模国の国府を守護する神社として、広大な敷地と美麗な社殿、門沢橋にまで及ぶ参道、海老名耕地500町歩を有していました。室町の二度にわたる戦乱により荒廃しましたが、その後、海老名耕地の用水を守る「水引祭」の復興を通して、海老名総鎮守として、人々の崇敬を受けています。 有鹿神社には、鳩川の水源を守る「奥宮」(相模原市磯部の勝坂に鎮座)、中流を守る「中宮」(座間市から海老名市上郷に遷座)、相模川の合流点を守る「本宮」(海老名市上郷に鎮座)があります。 境内の社務所は常駐ではありませんが、境外の事務所は常駐です。 問い合わせはお電話で承ります。電話番号 046-234-4763 本部事務所所在地 〒243-0418 神奈川県海老名市大谷南2-3-18 事務所でも御神札、御守、御朱印の書置き、御朱印帳の授与ができます。 事務所ではおみくじ、御朱印の直書きはできません。はんこが神社にありますので。




(境内案内板より) 有鹿神社 御由緒 有鹿神社(あるかじんじゃ)お有鹿様は、相模国で最古の歴史と高い格式を有する。 創成 遥か遠い昔、相模大地は、海底の隆起により出現する。有鹿谷の泉を水源とし、 これより流れ落ちる鳩川(有鹿河)の流域に人々は居住し、有鹿郷という楽園が 形成された。縄文の頃より、有鹿の泉は水神信仰されて来たが、弥生の頃になり、 農耕の発展委伴い、人々は、農耕の安全と豊穣を祈り、水引祭を起こし、 有鹿大明神と称え、有鹿神社を創建した。有鹿谷の奥宮、鳩川中流の 鹿間の中宮、相模川に合流する地の本宮である。 発展 奈良平安の頃、相模国府は海老名郷に所在し、有鹿神社は、国司の崇敬を受け 相模国の延喜式内社中随一の社格を有した。天智天宝三年(六六四)、初めて 祭礼を行い、天平勝宝六年(七五四)八年(七五六)、藤原廣政の社殿修理と 墾田五百町歩の寄進を受け、貞観十一年(八六九)、従五位に昇階し、 永徳元年(一三八一)、正一位の極位となる。広大な境内に美麗な社殿が建ち、 条里制の海老名耕地を領有し、また、明神大繩(参道)は、社人の住む社家 を経て寒川に至り、一大繩は、相模国分寺に至る。 変動 やがて、国府も移転し、有鹿郷から海老名郷に地名も変わり、有鹿神社は 豪族の海老名氏の崇敬をうけるに至った。その後、室町の二度の大乱を被り、 海老名氏は滅亡し、美麗な社殿と広大な境内や社領も喪失した。 その結果、鳩川中流に鎮座した中宮も現在地に遷座し、有鹿姫の伝説 (巷間では、鈴鹿明神の創建の伝説となる)として残る。有鹿神社は、 農耕を礎とした産業の発展を背景とし、水引祭の斎行により、海老名耕地の用水を 守り、相模国五宮として人々の崇敬を集めた。 現代 明治維新となり、県社に列せられたが、郷社にとどまり、神饌幣帛料供進社となった。 第二次世界大戦後、宗教法人有鹿神社として神社本庁に属する。有鹿神社は、 水引祭を通し、瑞々しい活力を与え、人々の生活の安全と繁栄を見守りつづける。 神奈川のへそ 子育厄除大社として、海老名総鎮守、また、神奈川の聖地である。 本宮 大鳥居の跡地(鳥居田)から四百※参道を進むと、鐘楼後の有鹿姫霊地の碑を 傍らに、松無しの有鹿の森が繁る本宮が鎮座する。鳥居の右側に手水舎、 左側に鐘楼と神楽殿、正面に本殿を覆う覆屋・幣殿・拝殿の三棟一家の 社殿がある。本殿の建〇と拝殿の天井の龍絵は、海老名市の重要文化財の 指定を受ける。社殿の左側に日枝社・稲荷社・諏訪社の三社、また、社務所側の 東門近くに有鹿天神社が鎮座する。 中宮・奥宮 東方四百米の地に有鹿井(有鹿姫化粧井戸)、更に、二百米の地に 有鹿池(有鹿明神影向池)があり、中宮が鎮座する。鳩川に沿って上流に進むと 相模原の磯部勝坂の有鹿谷には奥宮が鎮座し、その奥には有鹿の泉が 今も湧き出している。











左側の狛犬と燈籠、子供を伴った雌の獅子(阿形)、台座には「凜」の文字、「威風凜然」かもしれない。
有鹿辞典 狛犬 https://sites.google.com/view/aruka-traveling-dictionary/Aruka_Shrine/komainu 有鹿神社の狛犬は拝殿近くと鳥居脇、二対あり、拝殿近く狛犬は河原口村石工、望月久吉氏(1858年~1926年)作。 大正8年(1919)建立の江戸獅子流れ型で向かって左側が阿形の子持ち、台座は「凛」。向かって右側が吽形の珠持ち、台座は「威」。 多くの狛犬は右が阿形、左が吽形であるのに対し、望月久吉氏作の狛犬はその逆の配置となるのが特徴で、有鹿神社の他、伊勢原市石田の子安神社、横浜市神奈川区の羽沢神明社にも望月氏の狛犬が氏の作である。望月家は現在も海老名市上今泉で石材店を営んでいる。 鳥居脇の狛犬は河原口村石工、前場直治氏(1882年~1935年)作。 建立年不明の江戸獅子流れ型で向かって左側が吽形の子持ち、台座は「納」。向かって右側が阿形の牡丹持ち、台座は「奉」。 ※画像はオリジナルページを参照ください。









(Wikipediaより) 本宮と奥宮、中宮 本宮は神奈川県海老名市上郷に鎮座し、有鹿比古命を祀る。 奥宮は、本宮から北に6キロメートル程離れた神奈川県相模原市南区磯部の「有鹿谷」に鎮座し、有鹿比女命を祀る。鎮座地の傍は水源となっていて小祠と鳥居がある。また、東側の丘陵(有鹿台)には勝坂遺跡がある[2][3]。 中宮は「有鹿の池(影向の池)」とも呼ばれ、本宮から約600メートル(徒歩5分程)の位置に鎮座しており、有鹿比古命・有鹿比女命の2柱を祀る。鎮座地には小さい池(現在は水が張られていない)と小祠、鳥居がある[4]。この池で有鹿比女命が姿見をしていたという伝承がある[5]。 三社の位置関係は、本宮は鳩川の相模川への流入口域にあり、奥宮は鳩川の水源の一つにある。中宮は鳩川の中間地点の座間市入谷西の諏訪明神の辺りにあったが、中世期に衰退し、海老名の現在地に遷座した[要出典]。なお、鈴鹿明神社の縁起では、有鹿神と鈴鹿神が争った際、前述の諏訪明神[注 2]と弁財天の加勢により鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷に追いやられたとされる[6][7]。これが有鹿神社の移転の伝説となっている(詳細は「鈴鹿明神社#有鹿神社との説話縁起」を参照)。 (有鹿神社ッホームページより) 奥宮は『史跡勝坂遺跡公園』です。 有鹿神社奥宮の鎮座する『史跡勝坂遺跡公園』の近隣に『勝坂歴史公園』があります。 名称、南北に長い点、無料駐車場がある点、広くてほぼ野原である点、森林がある点など類似点が多いためなのか、Google Mapに投稿されている写真を含め複数の観光ガイドサイトで『史跡勝坂遺跡公園』『勝坂歴史公園』が混同されていることに気づきました。 各サイトには訂正の依頼を送りました。 有鹿神社の奥宮へお参りの際は、どうぞ『史跡勝坂遺跡公園』を目的地にされてください。 住所:相模原市南区磯部字勝坂1822(管理棟) (相模原市ホームページ) https://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/kurashi/shisetsu/kouen_kankou/kouen_ryokuchi/1003090.html 施設案内 史跡勝坂遺跡公園 https://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/090/01.pdf 相模原市南区磯部1780ほか 国指定(1974年) 内容 縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡です。大正15(1926)年、考古学者大山柏氏による発掘調査で発見された縄文土器は、立体的な装飾の文様や顔面把手(顔を表現した取っ手)などによって注目をあび、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期のめやすとされました。 また、同時に発見された多くの打製石斧を、土を掘る道具と考えて原始農耕論が提唱されたことは、我が国の考古学史上、極めて重要です。 昭和48(1973)年の発掘調査で発見された集落の一部、勝坂遺跡D区が49(1974)年に国の史跡として指定され、55(1980)年、59(1984)年、令和元(2019)年に追加指定を受け、D区の国指定面積は42,951平方メートルとなっています。 D区の東方、谷を隔てた台地に位置する大山柏氏の調査地点、勝坂遺跡A区では平成17(2005)年の発掘調査で発見された集落の一部、磯部字中峰2097番1ほか4,104平方メートルが平成18(2006)年、令和元(2019)年に指定され保存されました。 勝坂遺跡周辺は起伏に富んだ自然地形に、緑豊かな斜面樹林(段丘崖)、こんこんと湧き出る泉など、縄文人が長く暮らし続けた豊かな自然環境が今なお残されています。平成21(2009)年度には「大自然の中の縄文時代」を体感できる遺跡公園として整備しました。園内には縄文集落の雰囲気を再現し、土葺きと笹葺きの竪穴住居2棟を復元しているほか、周辺には竪穴住居廃絶後の窪地なども復元しています。また集落の終末期に登場する敷石住居の模造も屋外展示しています。公園内の管理棟には勝坂遺跡出土品やパネルの展示を行っています。
鈴鹿明神社(Wikipediaより) 鈴鹿明神社(すずかみょうじんしゃ)は、神奈川県座間市に鎮座する神社。戦前の近代社格制度(旧社格)においては郷社に列しており、現在では神奈川県神社庁による献幣使参向神社(同県神社庁指定神社)となっている。 祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 素戔鳴尊(すさのをのみこと) - 当地で疫病が流行った際に、鎮まることを祈って京都祇園の八坂神社より勧請された[3]。 かつての祭神 『新編相模国風土記稿』(天保12年 (1841年) 成立)によると、牛頭天王を合祀していたという[4][5]。 由緒・歴史 創建時期は不詳だが、第29代欽明天皇の御代(539年?〜571年?)に創祀したと伝えられている[6]。一方『正倉院文書』によると、天平年間(729年〜749年)には当地は鈴鹿王の所領で土甘(とき)郷と呼ばれていたことから、王の名前より「鈴鹿」という字名が付けられたとも考えられている[2]。また、当社の縁起では「遠く伊勢の鈴鹿郷の祭礼において神輿が海上を渡御していた際、暴風によって漂流し相模国入海の東峯に漂着したといい、このことから里人が座間全郷の鎮守として社を創建し鈴鹿大明神を崇め祀った」という伝説も残されている[2][3][6]。 当社蔵、最古の棟札は弘治2年(1556年)の再建時のもので、当地が小田原北条氏の領地であったことから北條藤菊丸(北条氏照)が大壇越(金子五千疋で「鈴鹿大明神再造成就処」[3][7][注 1])、および地域の領主若林大炊助であった旨が記されているが[4][8]、これには近世初頭の改竄が見られる[9]。またこの再建時には、京都祇園の八坂神社の祭神「素戔鳴尊」が合祀されている[1][3]。造立修理を伝える棟札はこの他にも、元和6年(1620年)[4]、寛文6年(1666年)、元禄16年(1703年)、享保3年(1718年)および18年(1733年)、宝暦8年(1758年)の記銘のあるものが伝えられている[8]。 江戸時代には当社が鎮座する座間宿村と入谷村[注 2]の総鎮守となっていた[5][6]。その後、明治2年(1869年)12月には、座間宿村と入谷村を含む27村(現在の座間市・相模原市の全域および大和市・海老名市の一部に及ぶ広範囲の地域)の郷社に列格している。また、現代においても昭和43年(1968年)1月に神奈川県神社庁献幣使参向神社に指定され、県内の有力神社となっている[2]。 有鹿神社との説話縁起 海老名市上郷に鎮座する有鹿神社と争った説話縁起(有鹿と鈴鹿の神争い)が存在する。このことは神奈川県神社庁著のかなしん出版『かながわの神社・ガイドブック』で以下のように紹介されている[1][12]。 欽明天皇の御代(539年?〜571年?)、伊勢鈴鹿から当地(座間)に遷ってきた鈴鹿神は財宝を持ち豊かに暮らしていた。一方、その頃相模国勝坂にいた有鹿神はこの財宝を横取りしようと当地にやってきて争いになったが、諏訪明神[注 3]と弁財天の加勢で鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷へ追い払われた。それ以来、有鹿神は勝坂へ帰ることができなくなったという[1][12]。 また、『座間古説』[注 4]では当社と有鹿神社の関係性をよく表す以下の伝承を冒頭で紹介している[6]。 当時座間7ヶ村の内の一つであった勝坂(現・相模原市)に有鹿の蛇神が棲んでいた。有鹿は鈴鹿の宝玉を盗むため「鈴鹿の森」に絡まり機会を狙っていたが、鈴鹿の社内にいた梨の木の諏訪明神[注 3]と諏訪の下(海中)の弁財天がこれを追い払い、続いて谷の深(やのふけ、桜田一帯の低湿地帯)で三神がそれぞれ大蛇に変身して有鹿と戦った。これには適わず、有鹿は相模川沿いに敗走し海老名で有鹿大明神(海老名総鎮守)として祀られたという。 その後、有鹿明神の神輿は勝坂まで巡行していたが梨の木の諏訪坂を避けて進んだものの、鈴鹿の森の西方で神風に遭い巻き落とされてしまった。その場所(現在の座間小学校の辺り)は「輿巻」(こしまき)と呼ばれるようになり、それ以来、有鹿明神の神輿は梨の木の諏訪坂を通らなくなった。 さらに、『座間古説』では両神社における祭礼の関わりや歴史についても以下のように紹介している[6]。 当社の神輿はかつて毎年6月7日に鈴鹿の森を出発し、大川原(新田宿の相模川原)にて「浜降り」を行った後、14日まで宮川家[注 5]の前で休んでから還御していたが、この日はちょうど有鹿明神の神輿が還御する日でもあった。この際、前述の敗北の経緯から、有鹿神は石に姿を変えて馬の背に担がれながら還御したと伝えられ、当社の神輿が境内に入るまで有鹿明神の神輿は待機してから通る習わしであったという[6][14]。 有鹿の氏子を困らせるために、鈴鹿の神輿の出発を遅らせるようなことがあったといい、双方が争ったこともあったというが、享保の頃から有鹿神社の祭礼(水引祭[注 6])の神輿が勝坂に向かうのに際して、河原宿の南で鈴鹿明神の神輿が出迎えて先導し、勝坂にて祭りを共にするようになった[6][16](この変化について『座間古説』では本来の習わし(前述)と異なっていることから、「儀礼を欠いたやり方である」と記述している[6])。これは明治初期まで続いていたが、明治8年(1875年)に座間宿村が飯綱権現社(現・座間神社)を勧請して氏子から離れると、有鹿と合同の神輿渡御も行われなくなった[17]。 上記の伝承は、海老名周辺(有鹿信仰)の人々と座間郷(鈴鹿信仰)の人々の水を巡る争いともされる(「有鹿神社#水引祭」も参照)[1][18]。また、当地に古くからあった地神と新しくやってきた高位の神との勢力争いが伝説となった可能性も指摘されている[15]。なお、勝坂には有鹿神社の奥宮とされる「有鹿谷」(勝坂遺跡西側の谷)が現在もあり、また同社の中宮はかつて前述の説話縁起にも出てくる諏訪明神(現在も同地付近に所在/MAP 、石楯尾神社の論社の一つで当社の古社ともされる[6]、現在は当社の兼務社)[13]の辺りにあったとされるが、中世期に衰退し海老名に遷されたという(「有鹿神社#本宮と奥宮、中宮」も参照)。