On May 10th, after visiting the usual areas of Fujisawa City, Kuzuhara & Mesaka, I extended my trip to Aruka Shrine, a Sagami Province Engishiki-style shrine located at 1-4-41 Kamigou, Ebina City. Aruka Shrine is said to be the oldest shrine in Kanagawa Prefecture.

5月10日、いつもの藤沢市葛原&女坂の地をを訪問の後、海老名市上郷1-4-41にある相模國延喜式内社の「有鹿神社まで足を延ばしました。「有鹿(あるか)神社」は神奈川県内で最古の神社と言われています。

葛原(くずはら)では畑の土手の雑草が伸びて新幹線が見えにくくなっています。今日は曇り空。
女坂(めさか)の最終処分場入口のドイツアヤメがまだ咲いていました。
妙龍山薬王寺境内のアヤメは2色咲きです。
県道40号線を西に進み、海老名駅を過ぎてJR相模線の踏切を渡るとその先が目的地です。
有鹿神社入り口の案内板、総持院は別當寺

相模川の支流である鳩川(有鹿河)のすぐそばに鎮座します。(地図の右上が合流地点、地図の北は右方向)
水源地の相模原市磯部(勝坂遺跡,6km上流)には奥宮(石祠)があり、中流(0.6km上流)には中宮があるるらしい。地図の下の方には条里制の区割りが見える。
海老名総鎮守の社号標と神明鳥居 社殿は南向き(相模國五之宮ともいわれる)
有鹿神社公式サイト https://www.arukajinja.jp/
 有鹿神社は神奈川県のへそ(中心)として、太古より大地から生命の息吹を発する地です。 親しみをこめて「お有鹿様」と呼ばれてきました。お有鹿様は人間をはじめ動植物の生命を大地に生み出しこれを生育し、また、災厄を祓い清め活力を与えて来ました。 有鹿神社は相模国で最古の神社です。電話046-234-4763
有鹿神社本宮
~有鹿神社~
 有鹿神社は、有鹿郷(海老名市を中心とする地域)にある神社です。奈良・平安の昔には、相模国の国府を守護する神社として、広大な敷地と美麗な社殿、門沢橋にまで及ぶ参道、海老名耕地500町歩を有していました。室町の二度にわたる戦乱により荒廃しましたが、その後、海老名耕地の用水を守る「水引祭」の復興を通して、海老名総鎮守として、人々の崇敬を受けています。
 有鹿神社には、鳩川の水源を守る「奥宮」(相模原市磯部の勝坂に鎮座)、中流を守る「中宮」(座間市から海老名市上郷に遷座)、相模川の合流点を守る「本宮」(海老名市上郷に鎮座)があります。
 境内の社務所は常駐ではありませんが、境外の事務所は常駐です。
問い合わせはお電話で承ります。電話番号 046-234-4763
本部事務所所在地 〒243-0418 神奈川県海老名市大谷南2-3-18
事務所でも御神札、御守、御朱印の書置き、御朱印帳の授与ができます。
事務所ではおみくじ、御朱印の直書きはできません。はんこが神社にありますので。
相模國十三座内有鹿神社 高座郡高座海老名郷別當海老名総持院建建
古木の株から木が生えている。
手水舎の水盤、平成2年奉納の御影石製「洗心」の文字
(境内案内板より)
有鹿神社 御由緒
有鹿神社(あるかじんじゃ)お有鹿様は、相模国で最古の歴史と高い格式を有する。
創成
遥か遠い昔、相模大地は、海底の隆起により出現する。有鹿谷の泉を水源とし、

これより流れ落ちる鳩川(有鹿河)の流域に人々は居住し、有鹿郷という楽園が
形成された。縄文の頃より、有鹿の泉は水神信仰されて来たが、弥生の頃になり、
農耕の発展委伴い、人々は、農耕の安全と豊穣を祈り、水引祭を起こし、
有鹿大明神と称え、有鹿神社を創建した。有鹿谷の奥宮、鳩川中流の
鹿間の中宮、相模川に合流する地の本宮である。

発展
奈良平安の頃、相模国府は海老名郷に所在し、有鹿神社は、国司の崇敬を受け
相模国の延喜式内社中随一の社格を有した。天智天宝三年(六六四)、初めて
祭礼を行い、天平勝宝六年(七五四)八年(七五六)、藤原廣政の社殿修理と
墾田五百町歩の寄進を受け、貞観十一年(八六九)、従五位に昇階し、
永徳元年(一三八一)、正一位の極位となる。広大な境内に美麗な社殿が建ち、
条里制の海老名耕地を領有し、また、明神大繩(参道)は、社人の住む社家
を経て寒川に至り、一大繩は、相模国分寺に至る。
変動
やがて、国府も移転し、有鹿郷から海老名郷に地名も変わり、有鹿神社は
豪族の海老名氏の崇敬をうけるに至った。その後、室町の二度の大乱を被り、
海老名氏は滅亡し、美麗な社殿と広大な境内や社領も喪失した。
その結果、鳩川中流に鎮座した中宮も現在地に遷座し、有鹿姫の伝説

(巷間では、鈴鹿明神の創建の伝説となる)として残る。有鹿神社は、

農耕を礎とした産業の発展を背景とし、水引祭の斎行により、海老名耕地の用水を
守り、相模国五宮として人々の崇敬を集めた。

現代
明治維新となり、県社に列せられたが、郷社にとどまり、神饌幣帛料供進社となった。
第二次世界大戦後、宗教法人有鹿神社として神社本庁に属する。有鹿神社は、
水引祭を通し、瑞々しい活力を与え、人々の生活の安全と繁栄を見守りつづける。
神奈川のへそ 子育厄除大社として、海老名総鎮守、また、神奈川の聖地である。
本宮
大鳥居の跡地(鳥居田)から四百※参道を進むと、鐘楼後の有鹿姫霊地の碑を
傍らに、松無しの有鹿の森が繁る本宮が鎮座する。鳥居の右側に手水舎、
左側に鐘楼と神楽殿、正面に本殿を覆う覆屋・幣殿・拝殿の三棟一家の
社殿がある。本殿の建〇と拝殿の天井の龍絵は、海老名市の重要文化財の
指定を受ける。社殿の左側に日枝社・稲荷社・諏訪社の三社、また、社務所側の
東門近くに有鹿天神社が鎮座する。
中宮・奥宮
東方四百米の地に有鹿井(有鹿姫化粧井戸)、更に、二百米の地に
有鹿池(有鹿明神影向池)があり、中宮が鎮座する。鳩川に沿って上流に進むと
相模原の磯部勝坂の有鹿谷には奥宮が鎮座し、その奥には有鹿の泉が
今も湧き出している。
鐘搗堂(宮鐘)
参心殿の前のパンダ宮司
拝殿
鈴緒は白、賽銭箱 神紋は左三つ巴
鈴と鈴緒(麻ひもを編んだもの)と「有鹿大明神」の神額
拝殿と本殿の覆屋
石燈籠と狛犬(右)
珠を持つ雄獅子(吽形)、台座は「威」の文字

左側の狛犬と燈籠、子供を伴った雌の獅子(阿形)、台座には「凜」の文字、「威風凜然」かもしれない。
有鹿辞典 狛犬
https://sites.google.com/view/aruka-traveling-dictionary/Aruka_Shrine/komainu
有鹿神社の狛犬は拝殿近くと鳥居脇、二対あり、拝殿近く狛犬は河原口村石工、望月久吉氏(1858年~1926年)作。
大正8年(1919)建立の江戸獅子流れ型で向かって左側が阿形の子持ち、台座は「凛」。向かって右側が吽形の珠持ち、台座は「威」。
多くの狛犬は右が阿形、左が吽形であるのに対し、望月久吉氏作の狛犬はその逆の配置となるのが特徴で、有鹿神社の他、伊勢原市石田の子安神社、横浜市神奈川区の羽沢神明社にも望月氏の狛犬が氏の作である。望月家は現在も海老名市上今泉で石材店を営んでいる。

鳥居脇の狛犬は河原口村石工、前場直治氏(1882年~1935年)作。
建立年不明の江戸獅子流れ型で向かって左側が吽形の子持ち、台座は「納」。向かって右側が阿形の牡丹持ち、台座は「奉」。
※画像はオリジナルページを参照ください。
JR相模線の「海老名」と「厚木」の中間に位置することを示しているようです。
樹種名は「タモ」 「一寸の虫にも五分の魂」の貼り紙
拝殿前の大木
散歩の達人のポスター
パンダ宮司とネギ禰宜、トラ宮司の鬼は外 日刊スポーツの記事 2022年
最古の神社にパンダ宮司 読売新聞 2023年3月1日
ケヤキ
駐車場の横(東門)にある「有鹿天神社」と参道、「天神社」のご祭神は菅原道真公と思われる。
(Wikipediaより)
本宮と奥宮、中宮
 本宮は神奈川県海老名市上郷に鎮座し、有鹿比古命を祀る。
 奥宮は、本宮から北に6キロメートル程離れた神奈川県相模原市南区磯部の「有鹿谷」に鎮座し、有鹿比女命を祀る。鎮座地の傍は水源となっていて小祠と鳥居がある。また、東側の丘陵(有鹿台)には勝坂遺跡がある[2][3]。
 中宮は「有鹿の池(影向の池)」とも呼ばれ、本宮から約600メートル(徒歩5分程)の位置に鎮座しており、有鹿比古命・有鹿比女命の2柱を祀る。鎮座地には小さい池(現在は水が張られていない)と小祠、鳥居がある[4]。この池で有鹿比女命が姿見をしていたという伝承がある[5]。
 三社の位置関係は、本宮は鳩川の相模川への流入口域にあり、奥宮は鳩川の水源の一つにある。中宮は鳩川の中間地点の座間市入谷西の諏訪明神の辺りにあったが、中世期に衰退し、海老名の現在地に遷座した[要出典]。なお、鈴鹿明神社の縁起では、有鹿神と鈴鹿神が争った際、前述の諏訪明神[注 2]と弁財天の加勢により鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷に追いやられたとされる[6][7]。これが有鹿神社の移転の伝説となっている(詳細は「鈴鹿明神社#有鹿神社との説話縁起」を参照)。

(有鹿神社ッホームページより)
奥宮は『史跡勝坂遺跡公園』です。
有鹿神社奥宮の鎮座する『史跡勝坂遺跡公園』の近隣に『勝坂歴史公園』があります。
名称、南北に長い点、無料駐車場がある点、広くてほぼ野原である点、森林がある点など類似点が多いためなのか、Google Mapに投稿されている写真を含め複数の観光ガイドサイトで『史跡勝坂遺跡公園』『勝坂歴史公園』が混同されていることに気づきました。
各サイトには訂正の依頼を送りました。
有鹿神社の奥宮へお参りの際は、どうぞ『史跡勝坂遺跡公園』を目的地にされてください。
住所:相模原市南区磯部字勝坂1822(管理棟) 

(相模原市ホームページ)
 https://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/kurashi/shisetsu/kouen_kankou/kouen_ryokuchi/1003090.html
施設案内 史跡勝坂遺跡公園
 https://www.city.sagamihara.kanagawa.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/090/01.pdf
 相模原市南区磯部1780ほか
 国指定(1974年)
内容
 縄文時代中期(約5000年前)の大集落跡です。大正15(1926)年、考古学者大山柏氏による発掘調査で発見された縄文土器は、立体的な装飾の文様や顔面把手(顔を表現した取っ手)などによって注目をあび、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期のめやすとされました。
また、同時に発見された多くの打製石斧を、土を掘る道具と考えて原始農耕論が提唱されたことは、我が国の考古学史上、極めて重要です。  
 昭和48(1973)年の発掘調査で発見された集落の一部、勝坂遺跡D区が49(1974)年に国の史跡として指定され、55(1980)年、59(1984)年、令和元(2019)年に追加指定を受け、D区の国指定面積は42,951平方メートルとなっています。
D区の東方、谷を隔てた台地に位置する大山柏氏の調査地点、勝坂遺跡A区では平成17(2005)年の発掘調査で発見された集落の一部、磯部字中峰2097番1ほか4,104平方メートルが平成18(2006)年、令和元(2019)年に指定され保存されました。
 勝坂遺跡周辺は起伏に富んだ自然地形に、緑豊かな斜面樹林(段丘崖)、こんこんと湧き出る泉など、縄文人が長く暮らし続けた豊かな自然環境が今なお残されています。平成21(2009)年度には「大自然の中の縄文時代」を体感できる遺跡公園として整備しました。園内には縄文集落の雰囲気を再現し、土葺きと笹葺きの竪穴住居2棟を復元しているほか、周辺には竪穴住居廃絶後の窪地なども復元しています。また集落の終末期に登場する敷石住居の模造も屋外展示しています。公園内の管理棟には勝坂遺跡出土品やパネルの展示を行っています。
鈴鹿明神社(Wikipediaより)
 鈴鹿明神社(すずかみょうじんしゃ)は、神奈川県座間市に鎮座する神社。戦前の近代社格制度(旧社格)においては郷社に列しており、現在では神奈川県神社庁による献幣使参向神社(同県神社庁指定神社)となっている。

祭神
 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
 素戔鳴尊(すさのをのみこと) - 当地で疫病が流行った際に、鎮まることを祈って京都祇園の八坂神社より勧請された[3]。
かつての祭神
 『新編相模国風土記稿』(天保12年 (1841年) 成立)によると、牛頭天王を合祀していたという[4][5]。

由緒・歴史
 創建時期は不詳だが、第29代欽明天皇の御代(539年?〜571年?)に創祀したと伝えられている[6]。一方『正倉院文書』によると、天平年間(729年〜749年)には当地は鈴鹿王の所領で土甘(とき)郷と呼ばれていたことから、王の名前より「鈴鹿」という字名が付けられたとも考えられている[2]。また、当社の縁起では「遠く伊勢の鈴鹿郷の祭礼において神輿が海上を渡御していた際、暴風によって漂流し相模国入海の東峯に漂着したといい、このことから里人が座間全郷の鎮守として社を創建し鈴鹿大明神を崇め祀った」という伝説も残されている[2][3][6]。

 当社蔵、最古の棟札は弘治2年(1556年)の再建時のもので、当地が小田原北条氏の領地であったことから北條藤菊丸(北条氏照)が大壇越(金子五千疋で「鈴鹿大明神再造成就処」[3][7][注 1])、および地域の領主若林大炊助であった旨が記されているが[4][8]、これには近世初頭の改竄が見られる[9]。またこの再建時には、京都祇園の八坂神社の祭神「素戔鳴尊」が合祀されている[1][3]。造立修理を伝える棟札はこの他にも、元和6年(1620年)[4]、寛文6年(1666年)、元禄16年(1703年)、享保3年(1718年)および18年(1733年)、宝暦8年(1758年)の記銘のあるものが伝えられている[8]。

 江戸時代には当社が鎮座する座間宿村と入谷村[注 2]の総鎮守となっていた[5][6]。その後、明治2年(1869年)12月には、座間宿村と入谷村を含む27村(現在の座間市・相模原市の全域および大和市・海老名市の一部に及ぶ広範囲の地域)の郷社に列格している。また、現代においても昭和43年(1968年)1月に神奈川県神社庁献幣使参向神社に指定され、県内の有力神社となっている[2]。

有鹿神社との説話縁起
 海老名市上郷に鎮座する有鹿神社と争った説話縁起(有鹿と鈴鹿の神争い)が存在する。このことは神奈川県神社庁著のかなしん出版『かながわの神社・ガイドブック』で以下のように紹介されている[1][12]。

 欽明天皇の御代(539年?〜571年?)、伊勢鈴鹿から当地(座間)に遷ってきた鈴鹿神は財宝を持ち豊かに暮らしていた。一方、その頃相模国勝坂にいた有鹿神はこの財宝を横取りしようと当地にやってきて争いになったが、諏訪明神[注 3]と弁財天の加勢で鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷へ追い払われた。それ以来、有鹿神は勝坂へ帰ることができなくなったという[1][12]。
 また、『座間古説』[注 4]では当社と有鹿神社の関係性をよく表す以下の伝承を冒頭で紹介している[6]。

 当時座間7ヶ村の内の一つであった勝坂(現・相模原市)に有鹿の蛇神が棲んでいた。有鹿は鈴鹿の宝玉を盗むため「鈴鹿の森」に絡まり機会を狙っていたが、鈴鹿の社内にいた梨の木の諏訪明神[注 3]と諏訪の下(海中)の弁財天がこれを追い払い、続いて谷の深(やのふけ、桜田一帯の低湿地帯)で三神がそれぞれ大蛇に変身して有鹿と戦った。これには適わず、有鹿は相模川沿いに敗走し海老名で有鹿大明神(海老名総鎮守)として祀られたという。
その後、有鹿明神の神輿は勝坂まで巡行していたが梨の木の諏訪坂を避けて進んだものの、鈴鹿の森の西方で神風に遭い巻き落とされてしまった。その場所(現在の座間小学校の辺り)は「輿巻」(こしまき)と呼ばれるようになり、それ以来、有鹿明神の神輿は梨の木の諏訪坂を通らなくなった。
 さらに、『座間古説』では両神社における祭礼の関わりや歴史についても以下のように紹介している[6]。

 当社の神輿はかつて毎年6月7日に鈴鹿の森を出発し、大川原(新田宿の相模川原)にて「浜降り」を行った後、14日まで宮川家[注 5]の前で休んでから還御していたが、この日はちょうど有鹿明神の神輿が還御する日でもあった。この際、前述の敗北の経緯から、有鹿神は石に姿を変えて馬の背に担がれながら還御したと伝えられ、当社の神輿が境内に入るまで有鹿明神の神輿は待機してから通る習わしであったという[6][14]。
 有鹿の氏子を困らせるために、鈴鹿の神輿の出発を遅らせるようなことがあったといい、双方が争ったこともあったというが、享保の頃から有鹿神社の祭礼(水引祭[注 6])の神輿が勝坂に向かうのに際して、河原宿の南で鈴鹿明神の神輿が出迎えて先導し、勝坂にて祭りを共にするようになった[6][16](この変化について『座間古説』では本来の習わし(前述)と異なっていることから、「儀礼を欠いたやり方である」と記述している[6])。これは明治初期まで続いていたが、明治8年(1875年)に座間宿村が飯綱権現社(現・座間神社)を勧請して氏子から離れると、有鹿と合同の神輿渡御も行われなくなった[17]。
 上記の伝承は、海老名周辺(有鹿信仰)の人々と座間郷(鈴鹿信仰)の人々の水を巡る争いともされる(「有鹿神社#水引祭」も参照)[1][18]。また、当地に古くからあった地神と新しくやってきた高位の神との勢力争いが伝説となった可能性も指摘されている[15]。なお、勝坂には有鹿神社の奥宮とされる「有鹿谷」(勝坂遺跡西側の谷)が現在もあり、また同社の中宮はかつて前述の説話縁起にも出てくる諏訪明神(現在も同地付近に所在/MAP 、石楯尾神社の論社の一つで当社の古社ともされる[6]、現在は当社の兼務社)[13]の辺りにあったとされるが、中世期に衰退し海老名に遷されたという(「有鹿神社#本宮と奥宮、中宮」も参照)。

On May 7th, before the board meeting, I stopped by “Rhythm Higashi-Totsuka” and afterwards took a walk from “Shinano Ichirizuka” on the old Tokaido road to “Shinano Sakaue”.

5月7日、理事会の前に「りずむ東戸塚」に立ち寄り、その後で旧東街道の「品濃一里塚」から「品濃坂上」までを散策しました。

自動販売機の向こうが「りすむ日東戸津」の出入口
都市計画道路桜木東戸塚線(平戸地区)の工事が始まっていました。平戸中学校・東戸塚方面
東戸塚駅方面(北方向)
「りずむ東戸塚」の出入り口から保土ヶ谷・桜木町方向(東方向)
国道1号線方向(南方向)
「りずむ東戸塚」から東戸塚駅方向に向かう途中、優先道路を左折して40m(環2品濃の信号の手前130m)の右側に旧東海道の「品濃一里塚」の入口があります。入口に大型貨物自動車通行止めの標識があります。
この先20~30mの所に「品濃一里塚」かある。(道路の右側は平戸町)
(Wikipediaより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%81%E6%BF%83%E7%94%BA
品濃町(しなのちょう)は、神奈川県横浜市戸塚区の町名。丁番を持たない単独町名である。住居表示未実施

地理
横浜市戸塚区の北部に位置し、町域は南北に長く広がる。北東は保土ケ谷区、北西は旭区に接する。
面積は1.9km²[2]。JR横須賀線東戸塚駅の東口は、駅が開設された1980年頃より急速に発展し、超高層マンションや、西武百貨店とイオンをキーテナントとした大型商業施設「オーロラシティ」などが立ち並ぶ。
町北部には、保土ケ谷区にまたがり横浜カントリークラブが広がる。東海道線と横須賀線に挟まれた一角には乳牛を飼育する「肥田牧場」があり、アイスクリームの直売を行っている。また品濃町北部の東海道線の線路には、日本最古の現役鉄道トンネルである、清水谷戸トンネルがある。

歴史
沿革
かつての鎌倉郡品濃村で、1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴い、上柏尾・下柏尾・前山田・後山田・平戸・舞岡の各村と合併、鎌倉郡川上村大字品濃となる。1939年(昭和14年)4月1日に横浜市に編入され、戸塚区品濃町となった。
シナノ(品濃)という地名は、山麓の緩やかな傾斜地を意味する[9]。※出典は『横浜の町名』1996年12月、横浜市市民局総務部住居表示課発行
平戸との境は旧東海道で、品濃一里塚が残されている。保土ケ谷区との区境は、かつての相模国と武蔵国の国境であった。
戸塚宿方向を振り返ると旧東海道の細い道路が続いている。車の通行可能。
戸塚宿方向に進むと、東戸塚駅前のタワーマンションが見えてくる。
右側角に「福寿観音」があります。
福壽観音堂(横浜市戸塚区品濃町) 4travel.jp
5いいね! 2014/04/15 - 2014/04/15367位(同エリア1780件中)
https://4travel.jp/travelogue/10877451
JR東戸塚駅から環状2号線に架かる福寿歩道橋の旧東海道がある横浜市戸塚区品濃町外れの山側に福壽観音堂が建っている。建立した願主は福原政二郎氏である。福原政二郎氏は東戸塚の新駅誘致を行い土地造成を担当した新一開発の社長である。昭和38年(1963年)以来、その開発の旗振りをやってきた人であり、信心深く、観音信仰に篤かったので福壽観音堂を建立したのだという。観音堂参道に建つ「福壽観音縁起」には建立年の正確な記載はないが、Webに因ると昭和57年(1982年)10月に建立されたとされる。
 JR横須賀線東戸塚駅が開業したのは昭和55年(1980年)10月であり、その後、ニューシティ東戸塚の宅地(マンション)開発が始まった。ニューシティ東戸塚に最初のマンションが造られたのは昭和58年(1983年)であったというから、その前年に福壽観音堂が建立されたことになる。昭和57年(1982年)10月頃までに、マンション区画の整地や環状2号線のこの区間の造成は完了していたのであろう。そして、福壽観音に見守られながら、次々とマンションが建っていったのであろう。
(表紙写真は福壽観音堂)
※記事のみ引用、画像はオリジナルページを参照ください。
野口智子 オフィシャル・ホームページ
https://noguchi-tomoko.com/post-8518/
福寿観音
2022年3月21日ちょっとしたこと
横浜市東戸塚を訪ねました。駅を降りると、大規模店と高層マンションがそびえています。圧倒されながらマンションの間を歩いていくと、意外に緑が豊か。開発と同時に自然に気遣ってきたのでしょう。驚いたのは旧東海道が狭い道幅ながら残り、道路を見下ろす絶壁に小さな観音堂も。お地蔵さんがコートを着せられて、マンション群を見守っていました。
駅を降りると、東に向けて(この地図では下)ショッピングモールと自由通路が一体となったオーロラシティというエリアが伸びています。その終わりに左右に走るのが横浜環状2号線。それを陸橋で渡ったところに小さく福寿観音の文字が見えます。ただこの時は、そこまで目が行きませんでした。

駅前。下から見ると、道路を渡らずに、通路を通って買い物し、マンションに行ける構造になっているのがよくわかります。
駅前からマンションが並ぶのですが、ゆるい坂を上っていくと並木が枝をひろげていたり、手入れの行き届いた緑があったり。
マンションの足元の道をめぐり歩き、いつしか陸橋も渡ると、「旧東海道」の看板が現れました。少し先には「品濃一里塚」という名の一里塚が当時の形を残しているそうです。
その旧東海道と、環状2号線に挟まれるようにした高台に「福寿観音堂」がありました。古いものではありません。1982年のものです。巨石の碑文を読むと、驚きました。ここ東戸塚は、大正の始め頃から駅がほしいと地元で熱望されていたそうです。関東大震災、戦争などがあり、延び延びになっていた。それがいよいよ昭和40年代から駅を作ろうと機運が高まり、請願を続け、昭和55年1980年に東戸塚駅は完成したのだそうです。請願駅のため、駅舎や駅前広場の整備は地元負担。その費用の多く、25億円を出したという福原政二郎という方について記されていました。
福原氏は観音菩薩進行が厚く、駅と駅前の開発の大願が無事に行えたことを喜び、ここに観音堂を造ったのだそうです。駅の西側にもあるとのこと。なるほど、観音堂から東戸塚の駅までの町全体がよく見えます。
初めてこの地にうかがったご挨拶に、お賽銭をいれました。ふと見ると本堂のガラスに、高層マンションが映りこんでいます。このお堂の奥から観音様がマンション群を守ってくれているのでしょうか。
お地蔵さんもありました。赤子が足元に抱き着いている地蔵像。花がきちんと活けられて、防寒マントが着せられていました。お堂の周りは綺麗に掃除されています。こうしたマンション群の中の観音堂となると、とかく荒れていて、たばこの吸い殻だらけになっているものです。なんだかほっとしました。
無機的にみえる高層マンション。でもそれができる以前にまずは駅がほしいという人々の願いがあり、開発があり、投資した人が居て、緑を植えた人が居て、いまここを愛し、終の棲家にしようという人たちが、各建物で、各階で、日々の暮らしを紡いでいる。

そんな血の通った人間らしさを感じとれて、うれしかったのでした。
※記事のみ引用、画像はオリジナルページを参照ください。
東戸塚駅方面に続く環状2号線を跨ぐ陸橋(福寿歩道橋)と東戸塚ニューシティのタワーマンション4棟
さらに住宅街の中の尾根基地を通ります。
左側に梨農園
三叉路に行き当たります。左折すると平地小学校に出ます。
突き当りに「旧東海道」の案内板があります。
斜め右に曲がると下り坂になります。環2が出来るまでは坂下まで一直線の下り坂が200m続いていました。信濃坂上の三叉路の標高59mから品濃坂下の標高37mまで高低差32m、さらに坂下口の標高23mまで高低差46mあります。
道路が右に曲がるところに旧東海道の表示の車止めがあります。
道路左側に「旧東海道 品濃坂上」の案内板があります。
古い写真と説明文
車止めと旧東海道の道案内、環2が出来る前は車が通れる広さがありました。
階段お先に、環2を跨ぐ人道橋が見えます。(品濃一里塚からここまで640m)
車道を右に曲がると、近代的な東戸塚ニューシティのタワーマンションが見えます。
環状2号線に出る手前の横断歩道です。
左折すると先程の人道橋が見えてきます。
人道橋を渡り、右側の階段を降りると坂下の近くに出ます。(次回は坂下から赤関橋までを予定)

On April 30th, before shopping, I visited the former site of the Hagiwara Daikan Residence and Dojo at 3-54-1 Hirado, Totsuka Ward, and the Shinano Ichirizuka at 4-6-45 Hirado.

4月30日、買い物の前に戸塚区平戸3丁目54-1の萩原代官屋敷・道場跡と平戸4丁目6-45の品濃一里塚を訪問しました。
東戸塚駅前から環2境木交差点方面へ、横浜市営バス平戸幼稚園入口行き「品濃谷宿公園」バス停
バス停の後ろの道が「相武国境道」の入口で、後方のマンションは「アトラシアンズ東戸塚」です。
環状2号線を渡り、400m先の「境木地蔵尊前」交差点の信号を右折し、「焼餅坂」を下り、橋の手前を左折します。180m進み、さらに左折して140m先の突き当りが目的地です。
突き当りに代官屋敷の門が見えてきます。
戸塚区不動産センター
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萩原代官屋敷・萩原道場跡
(写真は省略し、記事のみ引用、改行、句読点を改変しています) ※ぜひ、オリジナルページをご参照ください。 新撰組の近藤勇も訪れた 萩原道場の跡地が戸塚の平戸にあります。 東戸塚駅から歩いて15分くらい、住宅街の側道を入っていくとあります。 こんなワクワクするような 道を入っていくと ありました。 『真心影流』という流派の道場で、入門者は225名いたそうです。 そしてその中に、近藤勇もいたとのこと。 ここで剣の腕を磨いたのでしょうか? この場所で立ち合いなどしたのでしょうか? ロマンを感じます。 立派な木もあります。 この木を相手に、剣の素振りなんかも したのかもしれません。 萩原代官屋敷の萩原さん、こちらの方は旗本の杉浦さんに仕えた代官で その萩原家の幕末の時代の当主が、先程の『真心影流』の免許皆伝だったとのこと。 お屋敷も立派です。 周辺も竹林で囲われていて、とても雰囲気があります。 住宅街にあるのですが、当時の剣客たちのことを思いながら 歩いていると、 竹藪から切りつけられそうな 気分になってきて身が引き締まります。 住宅街にまだ残る歴史的な痕跡。東戸塚のこの周辺は歴史スポットが多く、 駅前の賑わいとの対比が面白いです。 まだまだ戸塚の歴史を探検していきたいと思います。
残っているのは屋敷林と門のみの様です。
タウンニュース 戸塚区区・泉区版 公開:2021年6月17日
https://www.townnews.co.jp/0108/2021/06/17/578920.html
とつか歴史探訪
■〜旧東海道・戸塚宿を訪ねる〜第64話 〜剣豪と萩原代官屋敷・道場跡〜

萩原代官屋敷・道場跡
 旧東海道沿いの境木地蔵前の細い道を下り、竹林の中の更に細い道を抜けると江戸時代から残る萩原代官屋敷の門が見えます。

 萩原家は徳川幕府の旗本杉浦氏の代官職でした。旗本とは将軍直属の家臣で、一万石未満の報酬を得て将軍に謁見できる者をいいます。萩原家はその領地の一つである平戸村の代官としてこの地に屋敷を構えました。代官は勘定奉行に属し、年貢などの収納や警察、民事・軽犯罪の裁判などの職務に当たります。このことから代官屋敷内には、お白州(法廷)、石だたみ、牢屋などもありました。

 幕末、当主であった萩原太郎行篤(ゆきあつ)は、千葉周作(北辰一刀流)などと同時代の名剣士と全国的に知れ渡り、嘉永4年(1851)に直心影流の免許皆伝を得て道場を開きました。道場は門の右側にあり、今はその痕跡はありません。萩原道場は慶応2年(1866)までに225名の門下生を輩出したそうです。明治45年(1912)に造られた行篤を顕彰する「剣道師範萩原君碑」が門に向かって右斜め後方の旧矢場の林の中に立っています。

 萩原家所蔵の「剣客名簿」には安政5年(1858)、後に新撰組の隊長となった24歳の近藤勇が他流試合(道場巡り)でこの道場を訪れたことが直筆で残されています。ただ近藤勇は行篤にあえずに署名だけ残して去ったようです。実際に会ったらと思い巡らすだけで胸が躍ります。
(社)横浜国際観光協会 横浜市教育委員会の案内板 平成3年3月
道場は門の右側にあったようだが、建物は残っていない。
戸塚パルソ通信@メール 第130号
https://www.totsuka-pallso.jp/mailmagazine/yado/130-2.html
戸塚宿を行く(歴史探訪)vol062-1

 近藤勇も訪れた
  萩原代官屋敷・萩原道場跡(1)
 東海道の要所であった境木立場。境木地蔵や焼餅坂が賑わう街道沿いから一歩裏手に入った場所に、萩原代官所・萩原道場跡が残ります。
立場(非公式の宿場)ながら、大名も宿泊したという境木ですから、治安維持のために必要だったのでしょうし、場合によっては、大名の不審な動きを探る役割もあったのでしょう。
 萩原家は、旗本杉浦家の代官で、杉浦家の所領の一つである平戸の支配を任されていました。
 幕末の当主である、萩原行篤は、嘉永4年(1851)に直心影流の免許皆伝を得て、代官所に道場を開いたとされます。
 入門者は200名を越え、大いに栄えたと言います。
 また、現在の平塚、茅ヶ崎、寒川にも門弟を抱え、出稽古を行っていたとのことですが、これらには杉浦家の飛地の所領があり、現地の代官との情報交換もおこなっていたことでしょう。あるいは、萩原家は、それらの土地の支配も任されていたのかもしれません。
 萩原道場は、交通の要衝にあり、江戸からも近かったことから、多くの剣客が訪問し、切磋琢磨していました。
 安政5年(1858)の8月には、のちに新撰組を率いることになる、天然理心流の近藤勇が訪れたことがわかっています。
門の所に乾燥した棕櫚(シュロ)の葉を置いてあった。
右側のt駐車場はロープが張ってあリ、T字路までバックしてUtターン。
カーナビの地図によると、境境木地蔵尊の信号の保土ヶ谷寄りの細い道を下ると。すぐに屋敷の裏に出るようだ。また、矢印の下の道を三王山公園方向に30m進むと萩原君碑があるようだ。

萩原代官屋敷・萩原道場跡(2)|戸塚宿を行く(歴史探訪)|☆戸塚パルソ通信☆|とつか街ネタ!モノコト応援倶楽部  (萩原君碑の記事のみ一部引、写真はオリジナルページを参照ください)

近くに、幕末ー明治に活躍した萩原家の当主・行篤を顕彰する「萩原君碑」という石碑があるとのこと。探してみると、、ありました。萩原行篤が、幼少の頃から武勇の誉高く、維新後は神奈川県警に奉職し、皇族の前で演武を行う栄誉を得たことなどを顕彰する内容です。行篤没後に、門弟が願い、建立されたとあります。 萩原君顕彰碑のすぐ側に、萩原家類代と思しきお墓がありました。

元の旧東海道に戻り、戸塚方向に緩い左カーブの坂道を120mほど登ると道が狭くなる。
道路わき右手〈旧品濃村側)に品濃一里塚の標柱と案内板がある。
左側’(旧平戸村側)にも「旧東海道 品濃一里塚」の標柱が建っている。
東側(平戸側)の標柱
上の方に柵が見える。上の方は公園になっているようだ。
下の方には「私有地 立入禁止」の看板がある。
かなりの高さがある。(塚の大きさは9m四方、高さは3m)
保土ヶ谷方面を振り返り見る。木が生い茂り鬱蒼としている。
案内板を正面から見る。
現地の案内板より
品濃一里塚

 慶長9年(1604)徳川幕府は、五街
道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の
円滑を図りました。
 それと同時に、当時あいまいであった
駄賃銭を決めるために、江戸日本橋を起
点とした距離が判るように、 明確な里程
標が必要となりました。そのため街道の
両側には、一里(約4キロメートル)ごと
に5間(約9メートル)4方の塚が 造ら
れ、塚の上にはエノキやマツが植られま
した。これが一里塚です。
 一里塚は、旅人にとって旅の進みぐあ
いがわかる目印であると同時に、塚の上
に植えられた木は、夏には木陰をつくり、
冬には寒風を防いでくれるため、旅人の
格好の休憩場所にもなりました。そのた
め、一里塚やその付近には茶店ができ、立
場が 設けられるようになりました。
 ここ品濃の一里塚は、日本橋から九番
目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間
に 位置しています。旧東海道をはさんで
ほぼ東西に2つの塚があり、地元では一
里山と呼ばれていました。東の塚は平戸
村内に 西の塚は品濃村内に位置し、西の
塚にはエノキが植えられていたようです。
 このように、今でも道の両側の塚がと
もにほぼ当時の形で残っている所は、神
奈川県内でもこの一里塚だけであり、 
昭和41年には県の史跡に指定されま
した。
           横浜市教育委員会
              平成7年6月
この右の民家との間にある道から、後方の「品濃一里塚公園」に入れるようになっている。

On April 19th, on my way back from Mesaka in Fujisawa City, where I visit almost every week, I stopped by the Engishiki-style shrine “Utsumochi Shrine” located at 2662 Uchimodori, Fujisawa City.

4月19日、ほぼ毎週訪れている藤沢市女坂からの帰り道、藤沢市打戻2662の延喜式内社「宇都母知神社」に立ち寄りました。
藤沢市女坂「花桃の道」の花桃に青葉が混じるようになりました。
紅色の鮮やかな花桃がまだ咲いていました。

陸橋(人道橋、東京から46.115km地点)を超えて、女坂台側から見た新幹線N700系
アッという間に通り過ぎて行きます。全長25m×16両/250,000m/h/3600s)= 5.7sec
 慶応大学藤沢キャンパス近くに、延喜式内社相模国十三座の一座に数えられる宇都母知神社がある。
 雄略3年(459年)頃、古墳時代(大和時代)の創建、「日本総国風土記」に厳粛な祭祀を行う記載あり。
「相模国鷹倉郡宇都母知郷」に鎮座。
※相模乃国一宮の寒川神社と同じように、少なくとも1,600年近く前からある古社である。
 中原街道と大山街道が交差する用田の近くで、交通の要衝でもある。
 中原街道から遠藤宮原線(県道410号)に入り、宇都母神社入口の信号を右に曲がる。(慶応大学藤沢キャンパスの手前)
 付近にはガラス温室団地や養豚団地が並んでおり、花苗の直売所や四元豚のレストランもある。
 右方向(東)には、富士山と大山がきれいに見える「富士見の丘」がある。
 17~8年前程前になるが、植物工場学会の施設見学ツアーで辻堂駅前からバスに揺られて着いたところが㈱永田農園さんの施設で、見覚えのある景色・場所で驚いたことがある。
 ということは20年近く、用田や葛原・女坂の地に、毎週のように訪れていることになる。
宇都母知神社の横(道路の反対側)に鐘搗堂があり、土地改良区の石碑が建っている。
『JINさんの陽蜂農遠日記』藤沢・打戻散歩(その1):宇都母知神社2016.10.04
https://plaza.rakuten.co.jp/hitoshisan/diary/201610040000/
土地改良事業完成記念碑、「甦る大地  藤沢市長 葉山峻 書」
郷土の鎮守、宇都母知神社が鎮座する、藤沢市打戻字大仲及びそれに接する宮台、大谷戸、根下、
矢崎の地は、原始の昔より農耕が営まれてきたが、畑地は傾斜地が多く狭隘であり、山間に位置
した水田は強度の湿田で生産力も低く、長い間耕作農民を苦しめ、経営の伸展を阻害してきた。
昭和四十八年、藤沢市が国の施策である第二次農業構造改善事業を導入するに及び、当地の地権
者百十二名は、この事業の実施推進によって生産基盤の改善と経営の安定を計るべく、度重なる
協議を経て、土地改良区の設立に踏み切った。
以来十年間の歳月を費やし、本土地改良区は、県、市、農協等関係機関の懇切な指導と地権者及
び役員の溢れる熱意により、幾多の困難を乗り越えて、事業費二億七千万円、総面積四千五ヘク
タールに及ぶ土地基盤整備事業を完成させ、更にその耕地内の二千ヘクタールを対象に、事業費
四千五百万円をもって畑地灌水施設を完工し、また、ガラス温室団地及び養豚団地を配置するを
成し得た。これにより、改良地区の中心部を通る、工費六千万円をもって完全舗装された延長千
百三十六メートル、幅員七・五メートルの幹線道路をはさんで、農耕地は平坦にして整然と区画
され、どの耕地も巾四メートル以上の農道に接する、良好なしかも早害の懼れのない近代的農耕
地に生まれ変わった。この改良事業は、今後当地の農業経営の合理化と発展に寄与するところ限
りないものがあると思われる。
思うに、当地の農耕の遥かな歩みの中で、本事業はまさに歴史的かつ画期的な大事業であったと
言うべく、本土地改良事業の完成にあたり、その大概を記して、後世に伝えんとするものである。     
昭和五十八年一月  
     藤沢市打戻土地改良区
宇都母知神社の神明鳥居と玉垣。雄略3年(459年)頃、古墳時代(大和時代)の創建、
記紀に親しむ・奈良県公式ホームページwww.pref.nara.jp/koho/kenmindayori/tayori/t2012/tayori2405/nara_kiki2405.htm
〈采女(うねめ)の寿歌(ほぎうた)〉
 雄略記には、泊瀬(はつせ)(長谷)の百枝槻の下での新嘗祭(にいなめさい)(収穫感謝祭)の宴会の折り、伊勢国三重出身の采女の不注意に怒った天皇が、采女の気転の利いた寿歌を聞いて許した話を伝える。
 ある時雄略天皇は泊瀬朝倉宮の四方に枝を張った百枝槻、すなわちケヤキの巨木の下で新嘗祭の宴をした。宴席に仕えた三重の采女が、酒を天皇に献げたとき、杯にケヤキの落葉が浮いているのに気づかずに差し出した。落葉を見た天皇はたちまち采女を打ち伏せ、首を切ろうとする。すると采女は「殺さないでください、申しあげたいことがあります」と言い、四十五句に及(およ)ぶ歌を、おおよそ、「纒向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)(この物語では泊瀬の朝倉宮とあるべきところ。景行(けいこう)天皇関係の物語を流用したものか、日代宮とする。)は朝日夕日の照らすめでたい宮、竹や木が根を張るようにしっかり築かれた宮です。新嘗のための桧(ひのき)の門をもつ御殿の側に生えている枝張のよいケヤキ、上・中・下の枝はそれぞれ天・東・地方をおおっています。その上の枝の葉が中の枝の葉に、さらにそれは下の枝の葉にふれ、生命力を移し濃くしています。その生命力に満ちみちた葉が杯に浮かび、酒を木の生命力で満たしていますので、どうぞ召し上がってください」と歌ったのを聞いて、天皇はその采女の罪を許したという。
 
〈雄略天皇のイメージ〉
 雄略天皇は記・紀ともにエピソードの多い天皇で、ともに我が儘(まま)で、仕える者に厳しく、すぐ殺意をみせる専制君主として描かれる。ただ記・紀の伝えるイメージは少し異なる。紀ではいさめの言葉を受けいれる場合もあるが、無用の殺戮(さつりく)をする酷薄さを強調する。これに対し、記はこの話のように相手を許し、憎めないところもある天皇として描く。
 三重の采女の寿歌の発想は、前にもふれた(「県民だより奈良」2011年 9月号参照)「人間の生命は植物の生命と交感する」とする古代信仰に基づき、天皇もこれを受け入れている。宴の場としてケヤキの巨木の下を選んだのも同じ信仰であろう。この話は雄略天皇の人柄とともに、場に相応しい気転の利いた言葉・表現の大切さも語る。テレビタレントたちの得意とする「言葉の技」である。その技のない者はこうした時代に生まれ、暴君に仕えておれば、命がいくつあっても足りなかったに違いない。
参道の廻りと本殿の裏は社叢林になっている。境内の標高39mでこのあたりで最も高い所にある。
鳥居の右側の「延喜式内社 宇都母知神社」の標柱、側面に「平成5年4月建立」とある。
公益財団法人 藤沢市まちづくり協会
打戻のおはなし
 https://f-machikyo.or.jp/archives/uchimodori/
 打戻(うちもどり)は、御所見(ごしょみ)地区で一番早く拓けたとされる。
 その名の由来には諸説あり、よくいわれている説は、養蚕の神様が祀られている宇都母知神社の宇豆毛遅(うずもち)が訛ったもの、また「ウツ」と「モチ」には「小さな盆地」という意味があり、周辺の地形から呼ばれたものであるというものである。別の説では、海老名の刀鍛冶屋が、鎌倉へ向かう途中にこの地で休憩し、納める刀を見つめ、持ち帰って打ち直すことにしたためついた名であるというものもある。
 大山や富士山を眺めることの出来る高台に位置し、農業や養蚕が盛んで、江戸時代には助郷役(宿駅の人馬不足の補充)に指定されていた。
 大正時代末に農地の水不足を解消するため、人工的に「ため池」が掘られた。その池は現在、藤沢市少年の森の施設内に「みどりの泉」として残っている。

※神社のある場所は丘の上であるが、大字打戻(宇都母知郷)のあたりは泉の湧く小出川の水源地になっているので、盆地の様な地形と言えないこともないが・・・・,海老名の鍛冶屋の話は後付けと思われる。
鳥居の右側の「鳥居建設記念碑」の石碑、古墳らしきものがあるとのことだが・・・・
鳥居建設記念
平成天皇の御大礼を記念して鳥居の再建を行う
往時は木製の鳥居であったが大正7年に・・岩で建設された
大正12年の震災により笠木破損し修理が行われた・・・・
この為氏子一同の総意により寄進するものである
平成2年9月吉日
鳥居の右側の「・・・・ 鳥居建設碑 南窓書」、 隷書体は「大典記念」か? 即位の大典(たいてん)

「冠婚葬祭表書き特集 日本のしきたり」 昭和57年2月1日改定発行
著 者:松田南窓 発行者:林久利 印刷所:東京アート印刷

「下乗」と「定書」の新しい制札
   定
1.車馬を乗り入れること
1.魚鳥を捕らえること
1.竹木を伐ること
1.喫煙をすること
右域内において禁止する
延喜式内社
 宇都母知神社
石灯籠と参道、新緑が清々しい。
参道右の寄進名板、拝殿前の広場に鯉のぼりが100匹あまり、4年前から始めたらしい。
参道横(左側)に庚申塔。文政十年丁亥十一月吉日、1827年の造立。「打戻弁財天」と小屋は新しい。
手水舎と掲示板、後ろに「(菊紋) 宇都母知神社 奉納 氏子中」の幟旗が10本並んでいる。
掲示板の横に神社の御祭神、境内社、由来の石碑が建っている。
     宇都母知神社
御祭神
 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
  伊弉諾、伊弉冉二神の生み給う方で、高天原を治められ、神徳宏大で、人々から敬われ、日の神と称
され奉られた。
 稚産霊神(わくむすびのかみ)
  豊受大神の御親神で五穀や養蚕を司る神様です。
 若日下部命(わかくさかべのみこと)
  仁徳天皇の皇女で、雄略天皇の皇后になられた方で、非常に人徳の高い方で、養蚕を奨励された。
 境内神社
菅原神社
  御祭神は菅原道真公で、学問の神様
稲荷神社
  御祭神は倉稲魂神で、農業、商工業の神様
由緒
 当神社は創立年代は詳らかではないが、延喜式内社で十一代雄略天皇の御代 皇紀一一一九年(
西暦四五九年)に厳粛な祭祀が行われたことが、日本総風土記に記されている。
風土記によると当神社の所在地は相模国鷹倉郡宇都母知郷にあったとあります。
 六十一代朱雀天皇、天慶二年九月(皇紀壱五九九年、西暦九三九年)若日下部命の御尊霊を大和国泊瀬
より遷座して相殿に奉祀された。
九十代伏見天皇、正応🉁年八月(皇紀一九五〇年、西暦一二九〇年)鎌倉八代将軍久明親王の執権北条貞時が社殿を改築し、同年9月に参拝された。
寛永四年十一月(皇紀二二八七年、西暦一六二七年)領主高木主水源正次が社地九百坪(約三千平方米)を寄進
し、又、本殿の改築を行なった。
 当神社は明治六年十二月郷社に列せられた。
大正十二年の関東大震災により社殿等全てが倒壊したが、村人全員が総力をあげた努力により、倒壊
後わずか三年の大正十五年九月に全てが、現状のように再建された。
境内地は一丁五反(約一万五千平方米)で全域風致林の指定を受け、自然環境保全地域に指定されている。
 打戻字大平二〇〇九番地には溜池一反五畝(約百五十平方米)の社有地がある。
 社務所・参集殿等の建設を記念して、この碑を建てる。
     平成十六年九月吉日
拝殿と右側に菅原神社、千木は外削ぎ、鰹木は7本、鰹木に左三つ巴の神紋、社殿は南向き
神額の文字は読み取れない、神紋は三つ巴(菊紋ではない)
千木の外削ぎ(男神)、内削ぎ(女神)の区別や鰹木の本数(社格)と奇数、偶数の区別については俗説らしい。
神明造りの拝殿と本殿
※神社名の「うつもち」については、万葉仮名で表記されており、相当古くから(古墳時代、雄略天皇457年に厳粛な祭祀)あったものと考えられる。(この地を治めていた地方豪族に由来か? 全国制覇の為に皇祖神を祭ったのか? この時期から中央集権体制に移行した)
個人的には、古墳時代は最も興味のある時代である。
Web情報を調べていたら下記の記事があった。(記事も写真も充実している)

湘南人 湘南エリア最大級のニュースメディア
https://shonanjin.com/news/fujisawashi-utsumochijinja/

神社の歴史とロマンに思いを馳せる
 神社のなりたちについて、宮司の御厨さんよりいろんな話をお伺いすることができました。
 まず「宇都母知神社」の神社名は日本に一社だけで、どこか別の場所から移ってきたわけでもなく昔からこの地にあったのだそうです。また、ここ藤沢の打戻(うちもどり)という地区名の語源は、神社名の(うつもち)がどんどん変化していったものではないか?とも言われています。※他にも諸説あり
 「神社名である「宇都母知(うつもち)」という漢字から何を想像しますか?」と宮司さんから突然のクイズ。
 たまに参拝者にもこの質問をされるそうです。
 一つ一つの単語を「宇宙」や「京の都」となぞらえていくとなんだか壮大で偉大で揺るぎないものに思えてきました。
「これは想像でしかありませんが、古代の人々がそういう意味をもってこの漢字を当てたのではないかな?と私は思ってます」と宮司さんは言います。 
はるか遠く昔のこと、誰も真実が分からないその歴史の深さにロマンを感じます。
本殿右側の菅原神社、学問の神様として菅原道真公を祀る。
稲荷神社、農業、商工業の神様、五穀をつかさどる宇迦之御魂神・ウカノミタマを祀る。
こいのぼりと社務所
拝殿左側の神輿殿、昭和12年(1937)厚木市半原 宮大工 河内福賢にて新造。
神輿倉と拝殿、本殿。2026年に社殿再建100周年を迎えるそうだ。
社務所前の幟旗、NHKの歴史探訪のロケ地になったそうな。
社務所前の布看板
相模乃国 沿革 (Wikipediaより)
 相模国は古墳時代の成務朝に成立した相武国造(さがむ-)の領域(相模川流域、県中央部)と師長国造(しなが-)の領域(酒匂川流域と中村川流域、県西部)を合したとされる。さらに、ヤマトタケルの子孫である鎌倉別(かまくらわけ)の支配する鎌倉地域と三浦地域も加わる。
 なお、もとは武蔵国と一つだったという説がある。賀茂真淵や『倭訓栞』には、身狭(むさ)国があり、のち身狭上・身狭下に分かれ、語の欠落などでそれぞれ相模・武蔵となったとする。本居宣長は『古事記伝』で、佐斯国(さし-)を仮定し、佐斯上、身佐斯と分かれ、そののち相模・武蔵となったという。近藤芳樹『陸路廼記』などによれば総国(ふさ-)の一部が総上・総下となり、のち相模・武蔵となったとされる。しかしこれらの説は、武蔵国がかつては毛野国(群馬県・栃木県)地域と一体であったとする考古学の成果と合わない。
 国名の語源は不明。熱海と熱川から流れた水が冷え、寒海(さがみ)寒川として対比させた地名とする説や、前身とされる身狭上(むさがみ)・佐斯上(さしがみ)が由来とする真淵や宣長の説もあれば、古代この地域の産物であったカラムシ(苧・麻布などの種)が訛った「ムシ」に由来するという説や、「坂見」の転訛(箱根の坂の上から見える地域)という説なども存在し、定説が確定できなくなっている。

※「相模国鷹倉郡宇都母知郷」については、鷹倉→高座(たかくら)→高座(こうざ)となり、宇都母知(うつもち)→打戻(うちもどり)となったと考えられるが、宇豆毛遅(うずもち)と共に、「ウツモチ」の語源は全く不明であり、いつかは解き明かしたい謎である。
 古語辞典によると、「打つ」は、「たたく。ぶつける。打ちつける。」の他に「布を砧で打つ。(仮設物を)設ける。耕す。勝負事をする。(動坑、興行などを)する。など」の意味があるようだ。ただし、「打つ」という漢字にとらわれる必要はないと思う。

“うつわ”の語源に秘められた日本人の精神性 https://h-utsuwa.com/
 また、「うつわ」は一見、単なる容器や入れ物を指す言葉かと思われますが、その根底には深遠な東洋的思想が込められています。「うつわ(器)」「うつろい(移)」「うつつ(現)」「うつくし(美)」といった「ウツ―」から始まる言葉は共通して、この思想をベースにしています。

相模国 神社祭礼 https://eda.mydns.jp/taiko-2008/uchimodori.html
宇都母知神社
 「宇都母知(うつもち)神社」はその西方わずか1kmのところに名神大社の寒川神社が鎮座しているのにもかかわらず、『延喜式』所載の神社として昔から崇敬され、中央政府から幣帛を供せられていた。その理由は当社の所在地が古代より養蚕の盛んなところと知られ、当社はそこにある氏神として中央にも聞こえていたと推測される。『延喜式』のなかの主計式をみると、相模国に課せられた調として綾(あや)十八疋(ひき)・橡帛(しょうはく)十三疋・黄帛(こうはく)十三疋などをあげ、「自余は?布(しふ)を輸(いた)せ」と記してあるから、相模国の調としては絹類が主体であった。養蚕地の宇都母知においてもとうぜん機織が行われ、相当量の絹織物を産出していたものと思われる。(以下省略)

打戻
 打戻(うちもどり)という部落は昭和30年(1955年)4月に藤沢市が渋谷町・御所見(ごしょみ)村・小出村を合併するまでは、御所見村に属していた。その御所見村は明治22年(1889年)に打戻・葛原・用田の三村が合併してできた村である。
 打戻は現在「ウチモドリ」と呼ばれているが、本来の地名は社名と同じく「ウツモチ」であったのを、打戻という字を当てるようになって現在のような呼称に変わったものと思われる。ウツモチのウツはウチに同じく、モチは古語で「小さい盆地」という意味である。
 この打戻あたりの地域は「和名抄」のどの郷に当たるかについて、吉田東伍氏は御見所村・有馬村などは「渭堤(いで)郷」に含まれると推定している。渭堤はイデとよむがこの字は当て字に過ぎずない。山城国・駿河国その他に「井出」の地名があり、相模国高座郡の渭堤郷も同じ意味で、おそらくむかしこの辺りに大きな泉が湧いていて、人々がそれを利用していたことが地名の起源であろうと思われる。いまでも小出川という川が打戻の北と東の二ヵ所から発源して南流し、相模川の河口で同川に注いでいるが、その名は「小渭堤川」の意と思われる。

「海老名」地名の由来https://www.city.ebina.kanagawa.jp/shisei/profile/aramashi/1000573.html
地名の由来は不明とせざるを得ませんが、『有鹿神社縁起』に「この郷本源入江にして…殊に海老の大なる有るを以ってこの海より美名得るなり」とあることから、かつて入江に大きな海老が生息していた土地の意ととる説があります。しかし、これは説話として受けとっておいた方がよいでしょう。
 語源的にいって、エビはイビ(ユビ)と同じく「節があって曲がっているもの」をあらわす語だといわれています。そこから転じて、「階段状の地形」を意味する地名語となったと思われます。すなわち、エビナは「段丘崖の目立つ地」ということになります。
 また、エビをイビの転訛とみる場合、イビはイボと同じく「怒る」「荒れる」という意味の方言として、各地で使われています。この説を採れば、「川が怒って(氾濫をおこして)できた土地」ということになります。
 いずれにしても、エビナ地名は平安中期から用いられていて、はじめは狭い小地域を指していましたが、やがて周辺の地名に拡大し、さらには郷名にまでなったものと思われます。
(海老名市史叢書7『海老名の地名』より抄録)2020/04/01

有鹿神社(Wilipediaより)
有鹿神社(あるかじんじゃ)は、神奈川県県央に流れる有鹿河(出典:『惣国風土記』による。現在の鳩川)沿いに形成された地域(有鹿郷)に鎮座する神社。奥宮は相模原市南区磯部に鎮座している。「お有鹿様」とも呼ばれる。一説には阿波の忌部氏が当地にて祖先を祀ったのがはじまりとされる[要出典]。
延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に記載されている相模国の延喜式内社十三社の内の一社(小社)とされ、さらに同国の五之宮ともされる[1]が諸説ある[注 1]。旧社格は県社格の郷社。
神社本庁包括下にあり、神奈川県神社庁に所属する神社である。現在、海老名の総氏神となっている。
寒川神社の由緒書に「有鹿老 (あるかのおゆ)」という「有鹿の先輩」「有鹿神社の方が由緒がある」という意味の記載がある。寒川神社ではその由緒書を亡失した(出典:『鷹倉社寺考』)。
この他、2017年6月10日にメディアに初登場したキャラクター『パンダ宮司』も有名である。
歴史 草創
有鹿は、古代語の水の意味であり[要出典]、鳩川沿いに形成された地域を有鹿郷という。有鹿神社のご神体は、相模原市南区磯部の勝坂にある泉湧く洞窟。奥宮のある地域周辺は、国の史跡に指定されている勝坂遺跡であり、有鹿祭祀遺跡からは、5世紀前半から7世紀前半の銅鏡、子持勾玉、管玉、石製玉類、石製祭具などが304点出土している(出典:相模原市HP )。また、本宮も境内周辺の河原口坊中遺跡より弥生時代の小銅鐸、銅鐸形土製品、卜骨などの祭器類、多量の土器、石器、木器等の遺物が出土しており(出典:全国遺跡総覧)、同じく祭祀が行われていたものと思われる。この他、有鹿神社の創建に関わると考えられている有力者の古墳有鹿丘[要出典]より、ヘラジカの骨が出土しており、それが名前の由来になった可能性もある[要出典]。
社務所・参集殿全景
左側の狛犬、吽形の獅子(雌)で子供を従える。
右側の狛犬、阿形の獅子(雄)で球を持つ、大正16年。右手の白壁の建物は資料館
参道出口、周りには園芸施設(ガラス温室)が建ち並んでいる。
神社を出て振り返る
社叢林、風致林に指定され、自然環境保全地域になっている。

国文研データセット 養蚕秘録 享和3 (1803)年刊統一書名(統一書名よみ):
養蚕秘録(ようさんひろく)
記載書名連番 記載書名表記 記載書名よみ 記載書名種別:
1 扶桑國第一産/養蠶祕錄 ふそうのくにだいいちさん/ようさんひろく 見・外||2 養蠶秘錄 ようさんひろく 序首||3 養蠶祕錄 ようさんひろく 目・跋首||4 養蚕秘録 ようさんひろく 尾
記載著者名表記 記載著者名よみ 他等 役割 伝 記載著者部編等:
上垣/伊兵衞/守國 作 ||法橋/西村/中和 画 ||速水/春𣉊齋 画
解題:
日本・中国の養蚕のはじまりから書き起こし、養蚕の課程を絵入りで詳しく解説した書。奥州・丹波など各地域での手法の違いも図示、末尾に中国の故事を記す。養蚕書の白眉と言われ、広く読まれた。また、シーボルトの持ち帰った書は19世紀にフランス語やイタリア語に翻訳された。
注記
:〈版〉須原屋平左衛門に印あり。〈伝〉(印記)「川西守屋蔵」。  

※日本の養蚕の事之始めに天照大御神、保食神、稚産霊神(豊受大神の祖神)、若日下部命(仁徳天皇の皇女で雄略天皇の皇后)が出てくるので、養蚕に関わる神社とみて間違いない。  なお、保食神は、古事記では大宜都比売(オオゲツヒメ)で、スサノオに切られる。

保食神(Wikipediaより)
 保食神(うけもちのかみ)は、日本神話に登場する神である。『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。神話での記述内容[1]から、女神と考えられる。

オオゲツヒメ – Wikipedia 

出自
オオゲツヒメという名称は「大いなる食物の女神」の意味である。『古事記』においては、まず伊邪那岐命と伊邪那美命の国産みにおいて、伊予之二名島(四国)の中の阿波国の別名として「大宜都比売」の名前が初めて現れる(『古事記』では、四国は島のみならず一身四面の神としても表現されている)。そしてその直後の神産みにおいて、他の生まれいづる神々に混じってほぼ同名といえる「大宜都比売神」が再度生まれている記述がある。更に高天原を追放された須佐之男命に料理を振る舞う神としても「大気都比売神」が登場する。これらの神が同一神か別神かは明らかにされていない。

説話
高天原を追放された須佐之男命は、空腹を覚えて大気都比売神に食物を求め、大気都比売神はおもむろに様々な食物を須佐之男命に与えた。それを不審に思った須佐之男命が食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。須佐之男命は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売神を殺してしまった。すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。これを神産巣日御祖神が回収した。

上一宮大粟神社 – Wikipedia 

大宜都比売命 (おおげつひめのみこと) – またの名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)あるいは大粟比売命(おおあわひめのみこと)とされる。
社伝によれば、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。

神話での記述
 天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに分かれて出るようになったのである。
 天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。その種は秋に実り、この「秋」は『日本書紀』に記された最初の季節である。また大神は蚕の繭を口に含んで糸をひき、これが養蚕の始まりとなった。牛馬については特に説明されていない。
※(メモ)「うけもちのかみ」⇒「うつもち」になったのではないか?

Wayback Machine 養蚕https://web.archive.org/web/20171222052257/http://www.silk.or.jp/silk_gijyutu/pdf/zentai.pdf (p7)第2。養蚕の伝搬  倭国(九州):243~250A.D  倭国(機内):4C後

養蚕業 – Wikipedia 日本の養蚕 195年には百済から蚕種(さんしゅ=カイコの卵)が、283年には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えるなど、暫時、養蚕技術の導入が行われた。

扶桑|一般財団法人 懐徳堂記念会|大阪大学文学部内|大阪府豊中市

その昔、本邦の西国に「扶桑木(ふそうぼく)」と称する大木があり、外国の船がはるかにこの扶桑を認めて、日本の目当てとしたことから日本を「扶桑国」と言った、という俗説があります。また、中国のある字説に、太陽が木の下にあるのを「杳(ヨウ、くらい)」、木中に昇るのを「東」、木の上にあるのを「杲(コウ、あかるい)」とし、そこで言われる木は中国の東方の島(日本)にある「扶桑」であるとしています。
中井竹山は、これらを俗説とはしながらも、上古の日本に巨木があったことは事実であるとして、巨木伝説を紹介して考証した『扶桑木説(ふそうぼくせつ)』を書いたのです。
なお、この画像は、竹山の弟・履軒の『左九羅帖』(VOL.3参照)に描かれた「扶桑木」です。巨大な木の根元に米粒ほどの人々が描かれています。

秦氏についておしえてください。 – 日本の歴史に大変興味があります。今… – Yahoo!知恵袋

秦氏についておしえてください。
日本の歴史に大変興味があります。今は神社に興味があります。秦氏と伊勢神宮には何かしらの関係があるのでしょうか?全く分からないで言うので、関係なかったらごめんなさいなんですけれど、神奈川県には、秦野市と伊勢原市が隣接していて、大和市もあります。こういった名称は、そういった古代の日本とかかわりがあるのでしょうか?よろしくお願いします。

ベストアンサー astさん 2013/9/18 15:04(編集あり)

イエスキりストを祭っていると思われる伊勢神宮は秦氏と直接関係が有ります。
これを守っているイザヤ一族の拠点は伊勢神宮と一体にありますが、伊雑宮(いざわのみや)と称します。
(おそらく古事記などに出てくるイザナギやイザナミなどと関係有るのでしょう)ちなみにその紋章はダビデの六芒星です。
この神宮を整備したのは秦氏であると言われています。その後これを本尊として日本の天皇制を整備し現代に至っています。

神奈川県の秦野市は平塚と大磯の間を流れる金目川沿いに移動してきた秦氏が拠点を構えたところです。
ユダヤ教では山は神様の降り立ち宿る神聖な場所でこれをお参りする目的で神社が作られていました。
古代イスラエルにはこうした有名な山がいくつかありましたが、その中でも重要なものがモリヤでした。
日本に渡来した初期の弥生人と呼ばれている種族らは、旧約聖書による信仰を長い間保っていました(現在の神道)。
現代でも諏訪湖の諏訪神社では対岸にある守屋山を拝み、旧約聖書にのっとったお祭りを行なっています。
秦野市は丹沢の大山のふもとにある市ですが「大山(おおやま)」は偉大なる山という意味です。
伊勢神宮は正式には「神宮」です。これと同じで名前の無い「山」です。
これは山(縄文時代はアンヌプリ)は神様が降り立ち宿る神聖なものであったため「偉大なる山」と呼んでいたためです。
アンヌプリはアプリと転化し、現在は「あぶり神社」と呼ばれる山頂の神社に名前を残しています。
関東平野南部の平塚、相模原、横浜西部などから見ると、相模湾に向かって切り立ったその姿が一段と目だって見えます。 秦野市に隣接する伊勢原市から平塚市、海老名、茅ヶ崎市には重要な古墳や史跡が点在します。しかしほとんど日本史からは無視されているので、保存状態は悪いのでいつもそうした場所の近くを通るときには、なんとかならないかと心配しています。
伊勢神宮の中と同様にイエズス川(五十鈴川)も流れています。しかし9世紀ころの貞観大地震に関連する富士山の貞観噴火でこのあたり一体は100年間ぐらい火山灰が降り続き農地や御所は全滅してしまいました。 伊勢原には3の宮、相模川対岸には1の宮、海岸付近には2の宮が作られました。
秦野市から南方向の中村(現中井町)には五所の宮や公所などという地名があります。
丹沢東部にある日向薬師には大きな像が多数ありますが、その姿はまさに大陸から来た部族の姿をうつしたものです。
ここは秦氏の一族のお墓を守る場所のようなものでした。 資料によればその周囲には渡来人の墓が沢山あったようですが、いまではほとんど消滅し、仏教のお寺に改造されてしまったようです。  おそらく西の大和朝廷が東のこの地域を整理してしまい、京都を中心とした日本の支配体制を確立していったのではないでしょうか?
(なお以前私自身が不勉強な時に同じような質問を出したことが有りますので、参考にしてください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1088320675
(補足)
後の回答者の中に「秦野市役所が秦氏とは無関係だ、と公表している」と記されていますが、この回答の内容は間違いです。
正しくは「秦野市役所は秦氏が秦野を拓いたと書いてある書類は見つかっていないと言っている」というだけです。
誤解を与える恣意的な回答はご注意下さい。

「秦野(はだの)」の由来  
(秦野市役所のホームページからの引用)
「秦野市の「秦野」という名称の由来については、いくつかの説があります。古墳時代にこの地を開拓した人々の集団「秦氏」(養蚕・機織りの技術にすぐれた渡来人の子孫の集団)の名に由来しているという説もそのひとつですが、現在のところ文献や考古資料から古代に秦氏がこの地を開拓したという証拠はみつかっていません。平安時代に書かれた「倭名類聚抄」に秦野の古名は「幡多」だったとの記載がはじめて文献にあらわれます。鎌倉時代に入ると「吾妻鏡」や「保元物語」などの軍記物語に、平安末期にこの地の地名を名乗った「波多野氏」が登場します
===引用終わり
ようするに、文献上は「秦野の昔の名前はハタだった」ということが書いてあり、
「その後、色々とハタにちなんだ人が関係者として現れる」、とも書いてあると言っているのです。

つまり、(1)平安時代以前の昔はその地はハタと呼ばれていて、その後ハタという名前の人がいろいろと関係している。
(2)「秦氏が秦野の名前のいわれである」と書いてある書類が見つかっていないので、書類重視のお役所仕事では何もいえない
、、ということです。

On the afternoon of April 15, I took a stroll along the old Tōkaidō road, visiting the site of the Sakaigi Tateba, the Sakaigi Jizōson, and the Yakimochizaka on my way back from the post office.

4月15日の午後、郵便局からの帰り道に旧東海道の境木立場跡、境木地蔵尊、焼餅坂を散策しました。

旧東海道、保土ヶ谷宿(権太坂)方面から境木立場跡
境木立場の門
立場の黒塀と門
歴史の道の案内図
案内図の左側に境木立場跡、境木地蔵尊、焼餅坂がある、
和菓子 菓匠「栗山」のHPより
http://www.wagashi-kuriyama.co.jp/history/
○難所「権太坂」と「品濃一里塚」
 その昔、東海道の旅人が、あまりの坂の険しさに、そばで畑仕事をしていたお百姓さんに「この坂はなんという名の坂ですか」と尋ねると、自分の名前を訊かれたのかと勘違いしたお百姓さんが「おらぁ、権太だ」と答えたのが「権太坂」の名の由来と伝わっています。
 お正月に行われる箱根駅伝で「花の二区」として知られる「権太坂」。駅伝で走る緩やかな上り坂が延々と続く道は、実は明治17年(1884年)に作られた新道で、旧東海道の権太坂は、あまりの険しさに江戸から西へ旅行く最初の難所として知られ、東海道中、箱根につぐ難所とされていたそうです。もちろん現在はきれいに舗装されていますが、その急勾配のなごりは残っています。また、当時、権太坂から東を望むと神奈川の海の絶景が広がり、坂を上りきった境木からは遠く富士山を望むことができ、その美しい眺めの様子は、広重や北斎などの手によって浮世絵として残されています。
 権太坂を上りきり、境木地蔵尊をすぎてやきもち坂を下ると「品濃一里塚」。
 東海道の一里(4Km)ごとに、道の両側に土を山のように盛って作られた塚で、当時の形をほぼ残しているのは、神奈川県内では「品濃一里塚」だけです。ちなみに品濃一里塚は江戸から九里にあたります。

*関連商品 ごんた餅・権太坂・品濃一里塚
境木地蔵尊の前
境木地蔵尊の幟旗と、石段とお堂
石段横の赤い花、幟旗に「見光寺」の文字がある。
新編武蔵風土記稿による見光寺の縁起
見光寺
下神戸町と今井川との間にありて、門は海道の方岩間町の内に出づ、。浄土宗にて江戸深川霊巌寺の末、大誉山珂山院と號す。開山大誉珂山寛永6年起立す、此珂山は寛文11年9月5日寂せり、本尊は弥陀の坐像長2尺3寸、客殿6間半に5間半すべて南向の寺なり(新編武蔵風土記稿より)
石段入口横の案内板(境木地蔵由来の石碑)
石碑の碑文より
 保土ヶ谷観光名所
境木地蔵由来
 ここ境木は武蔵相模の国境で
江戸時代にはそのしるしが建てられて
いて境木の地名はそれからおきたと
いわれています
 また境木は東海道中の難所で
あった権太坂を登りきった所にあり
名産の牡丹餅を食べながら旅の
疲れを休めることができて大変
賑わったとも伝えられています
境木の名を有名にしたものは地蔵で
江戸の人達にも崇敬され今でも
境内に寄附された燈籠が残って
います
なお この地蔵には次のような珍しい
伝承があります 即ちいつの頃か
相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した
地蔵が土地の漁師の夢枕に
たち「俺は江戸の方に行きたい運んで
くれたらこの海を守ろう」と告たの
で漁師たちが江戸へ運ぶ途中此の
境木で動かなくなった為村人達は
地蔵を引き取りお堂を建てて安
置したところそれからは村が繁昌し
たということです
地蔵堂の鐘は明治になって野毛山の
時の鐘に使用され横浜市民に
大正の大震災まで親しまれました
 平成元年10月4日
  岩間町 見光寺
伝承によれば、鎌倉の由比ガ浜に漂着した地蔵菩薩像を漁師が浜に祀ったところ大雨で流出してしまい、数年後腰越に流れ着いた。夢で地蔵から「江戸の方へ行きたい、途中で止まってしまったらそこに放置して構わない。」と告げられた漁師は、像を牛車に乗せて運んだが、当地で車が動かなくなってしまいそこに放置した。漁師から地蔵像を託された村民は、「どんな粗末なものでも構わないからお堂をつくってくれ、そうすればこの村を賑やかにしよう」と夢告により地蔵堂を作り安置したところ、地蔵への参拝客が集まり、有名なぼた餅屋ができるなどで村が繁盛したという。

堂が建立されたのは、万治2年(1659年)である。(wikiより)
寺号の石標柱 「一心山良翁院境木延命地蔵尊」
石段を上がったところから見たお堂
石段を登って右側の石仏
石段を登って左側の手水舎
お堂の廻りはお花畑
お花畑の中を通ってお堂へ
良翁院の扁額と鈴
卍の幔幕と鈴
賽銭箱
菓匠 栗山のHPより
http://www.wagashi-kuriyama.co.jp/history/
●「栗山の地元、保土ヶ谷、境木の今昔」
○境木地蔵尊のおはなし
東海道が整備されて間もなくの萬治2年(1659年)、境木に地蔵堂が建てられました。この年号はおじぞうさんの台に彫られたものですが、そのいきさつにはおもしろい話が伝わっています。
 昔、鎌倉の腰越の浜にうちあげられた大きなおじぞうさんが、漁師の夢の中に現れ「江戸へつれていってくれ。もしも 途中で動かなくなったら、そこにおいてくれればよい。」と頼みました。他の漁師の夢の中にも現れたので、皆でおじぞうさんを牛車に乗せて運ぶことにしました。ところが境木にさしかかると牛車は突然動かなくなり、漁師たちは おじぞうさんをそこに置き去りにして帰ってしまいました。
 境木の村人たちはおじぞうさんを見て困って悩んでいると、また夢に現れて「どんな粗末なお堂でもよいから造ってくれ。そうすればこの土地をにぎやかにしてあげよう。」と言いました。村人たちはさっそくその通りにすると、お参りに来る人も出て「ぼたもち」が名物のお茶屋さんもでき、たいへんにぎやかになったそうです。
 また、このお堂のあるところには、良翁寺という小さなお寺がありました。そのお寺に釣り鐘を造ろうと、タイゼンという和尚さんが江戸まで資金集めに行ったところ、集まったお金を飲み食いに使い果たしてしまいました。困った和尚さんはまたお金を集めなおすと、前よりもたくさん集まって立派な鐘楼ができ、これ以来「お金の集まるお地蔵さん」として、人々から拝まれるようになりました。
 良翁寺は大正12年の大地震でなくなってしまいましたが、今でも境内にある手洗い鉢は、金運の縁起にあやかろうと江戸吉原の人たちから寄進されたもので、その年号などがかすかに読み取ることができます。
 このような話は昔話として各地に似たものが伝えられていると思いますが、都市化したこの横浜の地にも、ほのぼのとした史跡が残っていることが何となくほっとさせてくれます。また、おじぞうさんの向かいにある竹林の径を下っていくと、「代官屋敷」があり、その竹林のうっそうとした山と代官屋敷の立派な門を眺めると、歴史と同時にかつてこのあたりの山深さを感じることができます。
 商売繁盛、金運の御利益があるという「境木のおじぞうさん」に、ぜひ一度お参りしてみてはいかがでしょうか。
*関連商品 境木おじぞうさんもなか・ぼたもち・境木地蔵尊ご利益まんじゅう
境内の落葉樹’(ケヤキ)に宿り木がたくさん生えている

境木地蔵尊の前の武相国境の標柱
相模国と武蔵国の境であり、東海道と武相国境道の交点でもある。
境木の由来
 境木の由来
ここは武蔵国と相模国の国境で江戸時代にはそのしるし
として傍示杭(ぼうじぐい)あるいは境杭(さかいぐい)と呼ば
れる木杭が建てられ、「境木」の名の由来になったと伝えられ
ます。また、ケヤキの大木があったとの説もあります。
境木地蔵前の交差点から焼餅坂方面を望む
焼餅坂、松並木
焼餅坂の案内板
約160mの緩やかな坂道、この先を左に入った所に「萩原代官屋敷・道場」がある。その先が品濃坂と品濃一里塚。
境木地蔵、保土ヶ谷宿方面に引き返す。
品濃焼餅坂公園の名称板
品濃焼餅坂公園
マンション横の焼餅坂の案内板、右下写真のように、2000年頃の道幅は今の半分程度で切通しのようになっていた。

焼餅坂(やきもちざか)
●旧東海道・焼餅坂
旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は「焼餅坂(別名:牡丹餅坂)」と呼ばれています。
武蔵国と相模国の国境にあたる権太坂と焼餅坂は、昔の旅人にとって日本橋を出発してから最初の難所でした。
このあたりには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の途中で焼餅を売っていた事がこの坂の名の由来だと言われています。
旧東海道の案内板

旧東海道(きゅうとうかいどう) ここは、江戸時代に整備された「急騰稼働の保土ヶ谷宿と戸塚宿の中間地点で、武蔵国と相模国の国境(くにざかい)にあたります。この周辺には下記の様な史跡スポットがあります。 

境木地蔵 階段脇にケヤキの大木がある境木地蔵は、休憩によいスポットです。このあたりの高台は、かつで武蔵国と相模国の国境で、その眺望は素晴らしかったようです。

品濃一里塚 江戸日本橋から9里(約36km)の距離にあたり、道の両側の津かほぼ当時の形で残ってる貴重な史跡です。当時は旅の休憩所としてにぎわっていたようです。—-

白旗神社 東戸塚駅東口に近くに鬱蒼とした森があります。ここが源義経を祭った白旗神社がある白幡山公園です。

新しい道しるべ「左旧東海道 右環状2号線」
「境木地蔵前」の信号、左に行くと環2の先に「相武国境道」の入口がある
1.1.12_4.201.相武国境道 http://fukanok.life.coocan.jp/1_kouiki/1112_shiroyama/4_spot/201_kokkyoumichi/
1.概説
 相武国境道は横浜市金沢区野島町の室の木地区に端を発して西北に伸び、神奈川・東京・山梨の三都県境まで続きます。この路上観察では極めて一部、釜利谷奥周辺古道図のA点・市境広場からG点・鼻欠地蔵の間になります。途中で古道を逸失していますが、D~G点間は人一人分幅の踏分道や馬の背道に古道の俤を留めていると云われます。
 相武国境道と白山道の接続部分は逸失していますので、市境広場から進んでも、鼻欠地蔵から 進んでも、高舟台分岐> で相武国境道を外れます。 This is web "武相二万歩". Copyright © 2021 by "F3". All rights reserved.
散歩日記 東京近郊ぶらり散歩日記
相武国境之道碑(横浜市泉区緑園)
相武国境之道碑(横浜市泉区緑園) 横浜市泉区と旭区の境に設置されている「相武国境之道碑(横浜市泉区緑園)」。 1974年(昭和49年)に、地元の方が建てたのだそう。この場所より南側の横浜市泉区側は旧相模国鎌倉郡岡津村、北側の横浜市旭区側が旧武蔵国都筑郡二俣川村です。古くから沿海部と内陸部を結ぶ道として利用されていたと云います。 現在周辺は(特に東側・南側)宅地造成され住宅街となっていますが、旧道らしく(?)尾根道であることをちょこっと感じられます。 最寄駅は、相模鉄道いずみ野線「南万騎が原」駅。 
タウンニュース https://www.townnews.co.jp/0108/2023/11/09/705522.html
第96話 武相国境道 2
とつか歴史探訪
 戸塚区内には幾つかの古道が走っていますが、武相国境道に限らずその厳密なラインを特定することは開発などで難しくなってきています。
 しかし市内には境木の武相国境之木や他にも、旭区のこども自然公園内の案内板や相武国境と刻まれた碑・野境の案内板などさまざまのものがあります。
 又港南区では区内を縦断するように武相国境がはしり、国境を跨ぐ下永谷小学校の校門には卒業作品だという国境表示があります。
 この国境を挟んで両国はどんな違いがあったのでしょうか、当時の人々は交通も現在のように便利に発達しておらず人々の生活は身近で限定的でむしろ村や郡といった小さな単位で生活しており、国とか国境を余り意識しなかったのではとも言われています。武蔵・相模の年貢にしても、天領(幕府直轄地)・旗本領・寺領などで大きな違いはなかったようです。
 戸塚区の天候は横浜市内の天候よりも鎌倉の天候に近く、区内のバス運行も歴史的な背景はあるにせよ市営バスと民営で大きくルートが分かれており、むしろ活動が活発に広範囲となった現在の方が国境を跨いでの行動に違いが感じられ、武蔵国である港横浜と相模国の戸塚辺りはどこか空気感が異なる気もします。
 旧東海道・鎌倉道・大山道など区内の古道が生活・軍事的な人間の営みから生まれてきたのに対し、国境の道は地理的な自然に基づき形成されたようであり、改めてその魅力に触れて見てはいかがでしょうか。

On April 12th, after visiting Biotope Kamiyabe, I went to Kuzuhara and Mesaka in Fujisawa City as usual. On the way back, I stopped by “Oji Ookami” in 1832 Kuzuhara.

4月12日、ビオトープ上矢部訪問の後、いつものように藤沢市葛原と女坂に行きました。帰り道、葛原1832の「皇子大神」に立ち寄りました。
ビオトープ上矢部の全景
上矢部第5公園から見たビオトープ上矢部
泉区領家の街路樹
相州藤沢 白旗神社 ホーム » ブログ » 藤沢の歴史 » 領家町初午祭
領家町初午祭
当地の領家町の地名は、大庭御厨の領家職(りょうけしき・伊勢神宮に納める年貢を取り仕切る)の方々が居住されていたことから名付けられといわれており、現在は8世帯で構成されています。
藤沢市葛原の新幹線ウォチングポイント
藤沢市葛原の造園屋さんの樹木
造園屋さんの樹木の新緑
藤沢市女坂花桃の道
今日は花桃の下に停車
白とピンクの混合咲き
白、ピンク、紅
花桃と青空と白い雲と新緑
同じ枝に白と紅が混じる。花桃の花言葉は「チャーミング」「気立ての良さ」「私はあなたのとりこ」「天下無敵」
枝垂れ桜、花言葉は「恋のメッセージ」「使者」「吉報」「素晴らしい出会い」
ドイツアヤメがこの株だけ咲いていた。花言葉は「恋のメッセージ」「使者」「吉報」「素晴らしい出会い」
白のドイツアヤメも1輪だけ咲いていた
妙龍山薬王寺の石標柱と枝垂れ桜。
境内の掲示板
掲示板下のセッコクの花、花言葉は「美しさ」と「忍耐」
石段に咲くオオキバナカタバミの花、花言葉は「輝く心」
道路の反対側の菜園の菜の花、花言葉は「快活な愛」「小さな幸せ」「活発」「元気いっぱい」「豊かさ、財産」。
菜園のソラマメの花、花言葉は、「永遠の楽しみ」「憧れ」。
犬(ゴールデンレトリバーと小型犬)が石段の所でお行儀よくお参りしていた。
菜の花とチューリップ、赤いチュ-リップの花言葉は「家族への感謝」「愛の告白」
新幹線の陸橋(人道橋)、線路脇には葛(クズ)が生い茂っている。
帰り蜜、藤沢市葛原1382の「皇子大神(おおじおおかみ)」に立ち寄り。
立派な鳥居と杉の木立の参道
関東大地震で倒壊した鳥居を耐久性のあるFRP製で建て替えたとのこと。右側がもとの御影石の鳥居の柱。
参道と拝殿、参道は100m以上ありそうなので望遠で撮影
ご祭神は葛原親王(かずらわらしんのう)と素盞嗚尊(すさのおのみこと)。
葛原親王は、794年に平安遷都を行った桓武天皇の皇子
公益財団法人 藤澤市まちづくり協会
葛原のおはなし
葛原のおはなし  葛原の名は、この地に桓武天皇第三皇子葛原親王(かつらはらしんのう)の御所があり「高座郡葛原村(たかくらごおりくずはらむら)」となったという説、また葛原親王の子孫である垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望が、平安時代この地に住み、葛原親王を奉祀し、崇めていたことから「葛原」と呼ばれるようになったという説、さらに、葛が生い茂る原だったためという説がある。  葛原親王を奉祀している皇子大神(おおじおおかみ=例祭日9月18日)参道入口の滝不動は、3月28日が例祭日で、昭和20年代初めまでの縁日では草競馬が行われていた。皇子大神の境内にはその昔、松や杉の大木があり、片瀬の漁師が陸の目印にしていた。また相模川河口にかかる馬入橋からも、この大木を見ることができたという。
鳥居の前のクスノキの大木、
道路の反対側には「滝不動」がある。

On April 5th, I photographed the cherry blossoms at Tokuouji Temple in Kawakami Town while picking someone up, and afterward, I captured the cherry blossoms at Jofukuji Temple in Kuzuhara, Fujisawa City, along with the peach blossoms on Mesaka.

4月5日、お迎えの際に川上町の徳翁寺の桜を撮影し、そのあとで藤沢市葛原の乗福寺の桜と女坂の花桃も撮影しました。
乗国山徳翁寺つばき霊園入口のほぼ満開の桜の花
つばき霊園入口の桜の花のトンネル
桜の花のトンネルと観音像
桜の木の根元の芝桜
桜の花とモデラート川上の建物
泉区領家付近の街路樹に若葉が芽吹いている
毎年この時期に花見に訪れている藤沢市葛原294の曹洞宗乗福寺
山門前の石柱と掲示板
山門の万年山の扁額
ウィキベディアによると
長元年間(1028~1036)に垂木御所の開基で真言宗の寺院として創建したが、宝泉寺6世朝岩による再興より曹洞宗となった。
明治、大正に2度火災にあい、寺の史料は当時の住職により記述された享保10年(1725)の『乗福寺縁起』が残るのみである。
『藤沢-わがまちのあゆみ-』1984年、増補版。305頁。

※数年前になるが、2回ほど住職さんに声を掛けられ、お話しさせて頂いたことがある。(一度は細い竹の子を頂いたことがある)
自分が若い頃は、高校に進学するものはわずかで、自転車もなく徒歩で毎週横浜まで通っていたとのことであった。
また、この境内の枝垂れ桜は、福井の大本山永平寺に修業に行ったとき、小枝を新聞紙にくるんで持って帰ってきたこと。
2年前から掲示板の文字が変わったので代替わりされたのかも知れない。(最後の年は、枝垂れ桜に寄りかかってお話しされていた)
山門を入ってすぐ右の観音像と赤い幟と桜の花
本堂正面
本堂の屋根を背景にした桜の花
境内の芽吹いた樹木と桜の花
永平寺から小枝を持ち帰って植えたという枝垂れ桜
門前の道路と民家の桜の花
藤沢市葛原の菜の花と新幹線
公益財団法人 藤沢市まちづくり協会のHPより引用
御所見のおはなし
御所見のおはなし 葛原(くずはら)には、桓武天皇第三皇子葛原親王(かつらはらしんのう)の御所があったといわれている。 御所見(ごしょみ)の名は、葛原親王が散歩の際に御所を眺めたという菖蒲沢の塚「御所見塚」に由来する。 また、平安時代に葛原親王の子孫である垂木主膳正従四位下長田武蔵守平忠望がこの地に住み、その館は土地の人々に垂木御所(たるきごしょ)と呼ばれていた。 菖蒲沢の塚から、この御所を見ることができたためという説もある。 1889年(明治22年)の市制町村制施行により、用田(ようだ)・宮原(みやばら)・打戻(うちもどり)・葛原(くずはら)・菖蒲沢(しょうぶざわ)・獺郷(おそごう)の六村が合併した際、この塚の名前から御所見村とされた。 御所見村は1955年(昭和30年)に藤沢市と合併し、現在は地区の名として残っている。 ※藤沢市葛原1382には「皇子大神」という神社があり、葛原親王(かつらはらしんのう)をお祀りしている。 ※また藤沢市打戻2662には延喜式内社の「宇都母知神社」がある。(小出川の彼岸花の近く)  宇都母知神社の歴史は古く、平安時代中期にはすでにあったといわれている相模国十三社の一つとされています。 「日本総国風土記」によると宇都母知神社は西暦459年にはすでに存在し、祭祀が行われていたことが記されています。
藤沢市女坂の花桃の道(最終処分場の臨時駐車場側から入る)
Rarea(レアリア)の2020年記事(https://rarea.events/event/78665)によると、
藤沢市女坂では、25年ほど前に地元住民がまちづくりの一環として花桃の植樹を始めた。
現在は約450本が植えられ、春になると白や赤、ピンクの花を観賞することができる。
東海道新幹線の線路沿いの遊歩道「女坂花桃の道」沿いにも植樹され、散策も楽しめる。
写真愛好家には、新幹線と花桃の競演も楽しみの一つになっている。
管理している尾上栄さん(79)は「今年は開花が早い。3月末から4月に入ったころがピークだと思う。
菜の花もきれいなのでぜひ足を運んでほしい」と話した。
※この記事から5年経過しているので25→30年、尾上さんは79→84歳ということになる。
ご夫婦で花を植えたり、草刈り、剪定、ベンチの補修等の管理をされている尾上さんと何度かお話しさせて頂くことがあった。
尾上さんは工務店を経営しており、この付近の住宅はほとんど自分が建てたが、近年はハウスメーカとの競争には勝てないとのことであった。
今年も募金箱に少額の寄付をさせて頂いた。
菜の花が斜面いっぱいに生えている。
白、紅、ピンクの花桃
新幹線の線路わきを通る
アップダウンの階段
毎週訪れる新幹線の陸橋付近
陸橋の上からの景色
陸橋から見た線路わきの花桃
菜の花の黄色と白、ピンクの花桃と青空、普段はいない家族連れがたくさん訪れている。
赤いチューリップと白いハナニラと黄色の菜の花
下りの新幹線と花桃
上りの新幹線の先頭車両と花桃
紅色tっピンクの花桃
桃源郷、元の出入り口に戻る

On March 29, I visited Tokuou Zen Temple and Tsubaki Cemetery in Kawakami-cho, Totsuka Ward, as well as the Hanamomo Path in Mesaka, Fujisawa City.

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3月29日、戸塚区川上町の乗国山徳翁禅寺及びつばき霊園、藤沢市女坂の花桃の道を訪問しました。

 徳翁寺の概要
宗派 曹洞宗 山号 乗國山 院号 - 寺号 徳翁寺
本尊 釈迦如来像 
住所 横浜市戸塚区川上町546 
徳翁寺の縁起
上杉憲方が父上杉刑部太夫乗國(大永元年152年没)の菩提を弔う為、鶴見総持寺第七百四世如幻宗吾禅師(享禄3年1530年寂)を開山に迎えて創建したという。
徳翁寺の縁起(新編相模国風土記稿より)
(後山田村)徳翁寺
乗國山と號す、曹洞宗能州○○郡普蔵院末、本尊は弥陀、開山は宗悟、享禄三年十一月廿日弱す。
開基は上杉刑部大輔乗國、大永元年七月十日卒す、法名養光院徳翁見公、按ずるに寛永宅間譜に、三十郎憲方、法名胤公、道號貴山、院號勝楽と云ふ、相州山之内庄に於て乗國山徳翁寺を建立すと見え又系図纂上杉系には、刑部大輔乗國の名を挙す。
宅間左衛門佐憲清が五代の孫に、乗忠と云ふものあり、通稱を脱し只養洪院と號すと記し、其子に三十郎乗方を係け徳翁寺建立と記せり。
是に豫て推考するに、寺傳に云乗忠と、院號の文字異なれど其唱へ同きに豫れば、もと乗國乗忠同人にして、其子乗方亡父の為に當寺を創建し、やがて其父を開基に准せしものならん。
寺傳の異なるは、全く訛舛あるなるべし、と傳ふ。
白山社。
曹洞宗徳翁禅寺の寺号石標柱と山門
塀の外から見える本堂、境内は非公開
山門(雨の影響でレンズが曇っている)
乗国山の扁額
山門左横の蘇鉄、先週まで雪囲いがされてた。
山門右横のお地蔵さん
観音菩薩
案内板(石碑)
徳翁寺縁起
此の寺乗國山徳翁寺と称し、文亀三年上杉謙信氏の曾伯父上杉刑部太夫乗國郷の子憲方が父の菩提を弔う為開いた寺です。
開山は石川県總持寺第七百四世如幻宗吾禅師です。當寺は大本山總持寺御直末で有るが元輪番地の為無住の時が多く寺は荒れ果てました。
大正十二年関東大震災にて本堂庫裡等大破し三十二世有全大和尚の時境内地が湿地の為山の平地に仮本堂庫裡を移転。
昭和五年三十三世百川文雄大和直豫てより心願の本堂建築に着手檀家中の寄附その他にて昭和七年十一月二十日落慶の榮を得中興の称號を賜る。
昭和三十五年神奈川縣營住宅建設の為山林を売却庫裡客殿を本建築昭和四十年落慶の運びとなった。
昭和五十四年文雄大和尚示寂、現三十四世文正和尚の代昭和五十七年本堂の大改修をし現在の場所に移築する。
昭和五十八年五月二十二日徳翁寺を四百年間護持した川上町の檀家(筆頭総代深野文夫、護持会々長石井昭一)を集めつばき霊園の開園並びに客殿庫裡及び庭園を含めた大開発の賛否を問う投票の結果實施する事と決定し昭和六十二年十一月三日鳳友産業社長北尾 武氏により無事竣工。
大本山總持寺獨住第二十一世眞源宏宗禅師(梅田信降猊下)を拝請し落慶した。
此も偏に佛天の御加護と壇信徒の協力の賜物と深謝する。
尚、この碑は徳翁寺門葉九ヶ寺の寄進に依るもので有る。
徳翁寺現董第三十四世重興大安文正 撰并書
十三佛石造
開山四百五十四遠忌 本堂修繕並○○院新築 記念 
徳翁寺の縁起(戸塚区郷土史より)
当寺は乗国山と号し、本尊は正観世音菩薩、能州大本山総持寺(現鶴見総持寺)の直末で、曽つては五院の首班普蔵院の末寺であった。
開基は鎌倉管領をつとめた上杉輝虎(謙信)の始祖上杉刑部太夫乗国であり、乗国は父(大永元年七月十日尾州小牧原において戦死)の菩提を弔うため、山之内庄山田村に一寺を創設し、所持の観音を本尊とし、如幻禅師を請して開山第一世とした。
「相模風土記」には「本尊弥陀、開山宗、悟享保三年(1718)十一月二十日寂」と記している。
大正十二年関東大震災に際し、諸堂宇崩壊のため現在の地に昭和七年移転し、十月十日諸堂完成し現在にいたっている。)
徳翁寺のつばき霊園入口、8分咲きの桜の花のトンネルと観音像
桜の根元の芝桜とモデラート川上(30日撮影)
徳翁寺の本堂が現在地に移転する前は、モデラート川上の裏の空き地(駐車場)のあたりに本堂があったようです。
また、モデラート川上の敷地のあたりには山門が建っていたようです。(モデラート川上建設時の地積図で確認しました)
以前に調べたWeb情報では、モデラート川上の後ろを流れる川上川の川岸(つばき霊園寄り)には、縄文時代の「貝塚」があったようです。
縄文時代は気温が高く、海面上昇によりこのあたりの近くまで海が迫っていたことになります。
(今回、Web調査では川上貝塚の情報は残念ながら見つかりませんでした・・・)
藤沢市女坂の花桃と菜の花
気温25℃まで上昇し、開花が進んでいます。

On March 24th, I went to the hospital for a medical appointment and used the waiting time at the pharmacy to stroll around Shirahata-yama Park and Shinano Shirahata Shrine.

3月24日、診療の為病院へ、薬局での待ち時間があったので、白旗山公園と品濃白旗神社を散歩しました。
AIによる改善 3月24日、診療のため病院へ行き、薬局での待ち時間を利用して白旗山公園と品濃白旗神社を散策しました。

AI翻訳(どういう訳かマレー語)Pada 24 Mac, saya pergi ke hospital untuk mendapatkan rawatan, dan semasa menunggu di farmasi, saya mengambil kesempatan untuk berjalan-jalan di Taman Shirahata dan Kuil Shirahata Shinano.
品濃小学校前の桜が咲いていました。
薬局での待ち時間があったので、近くの白旗山公園に行きました。
山頂に続く長い階段を上ります。
山頂には狭い広場とベンチがあり、背景にはタワーマンションが見えます。
品濃白旗神社方面への階段を下ります。神社の駐車場に繋がっていました。

駐車場内の河津桜は、前回訪問時は蕾でしたが、今回は葉桜になっていました。
まだ花弁が少し残っていました。
工事期間は3月10日まででしたが、今回は3月末まで伸びていました。
階段の両側に手すりがあります。架設は無くなりましたがまた通行禁止です。
今回も遥拝所で熱心にお参りする人がいました。
白旗神社の鳥居横の石標柱
神社脇のお地蔵さんとお堂
白旗山と背後のPark Tower

I dropped in at “Shinano Shirahata Jinjya Shinto shrine” and “Nagaya-san Tofuku-ji Temple” in the ambulatory way back in the morning of February 25.

 2月25日の午前中、通院の帰り道に「品濃 白旛神社」と「永谷山東福寺」に立ち寄りました。
 「品濃 白旗神社」の所在地は、当法人のGH「カモミール品濃」と同じ品濃町にあり、「永谷山東福寺」は、先日訪問した「平戸白旗神社」の別当寺で、平戸町にあります。
 「品濃 白旗神社」はちょうど参道階段の葺き替え工事中で、2月17日~3月10日までは階段左下の遥拝所でのお参りになります。
 今回は、社頭の「ご由緒」の案内板、手水舎と遥拝所、鳥居と神額を撮影し、「カモミール品濃」の運営の安泰を祈願しで参りました。 また、境内の桜の蕾が膨らんでいました。
 「永谷山東福寺」の駐車場には国道1号線側から入ることができるようですが、ナビの案内は「子母美(しぼみ)の森霊園」の駐車場を案内したようで、帰りは住宅街の中で迷ってしまいました。突然、見慣れた「りーふ東戸塚」の近くの丘の上に出たので、梅の花を前景にした雄大な富士山を撮影することができました。I love JAPAN.
戸塚区品濃町518-7の「品濃白旗神社」の鳥居と社標柱、玉垣。参道階段は葺き替え工事中
「品濃 白旛神社」の神額と注連縄
参道階段の葺き替え工事のおしらせ、2月17日~3月10日まで
手水舎(水屋)
手水舎の左の「ご由緒」案内板
御由緒(社頭の案内板より)
 康元元年(1256)源義経公を御祭神と崇め創建、御社殿は天正三年、天保十一年に夫々改築された。白旗とは源平争乱の際、敵味方を区別するための籏の色、平家の赤旗に対する源氏の白旗、 源氏そのものを象徴する名である
 源氏の武将等が祀られる「白旗」の名の付く神社は、 全国神社本廰傘下八十余社あり、その内「義経公」を祀る神社は八社であるが由緒は不明である。
 天正十九年以来は當地の知行となった新見(しんみ)氏が明治初頭ま當神社の興隆に尽力した。大正十二年 関東大震災の際には、御社殿は倒壊したが、氏子には損害がなかったので、時の部落長が「宮柱うちくだけても倒れても氏子の怪我なきぞ尊き」と献詠し、村人たちは「鎮守さまが身代わりになってくださった」と感激して翌年再建に着工、九月二十八日に竣工しこの日に因んで例祭日となる。
 その後八十余年、世の変遷を乗り越えた御社殿も平成19年の不審火により焼失。然しながら氏子への被害もなく、再び御神威に助けられ、平成24年10月氏子の尽力により御社殿を再建した。

【白旗神社と新見氏】
 徳川家康との厚い信頼関係を築いていた旗本新見氏は、天正十八(1590)年に新見正勝が相州 品濃・山田を領地として家康より賜った後、明治維新に至るまで、変わることなく領地を治めた。正勝は家督を譲ったのち、品濃に隠居、没後(1642年)白旗神社脇へ埋葬されたと伝えられています。
 幕末にはいり、ペリー来航の頃には新見正興が領主となっていました。安政五(1858)年欧米5ヶ国との間に修好通商条約が締結され、翌年、正興は外国奉行に任命された。
 そして万延元年(1860)、正興は日本初の遣米使節団の正使(主席代表)として、小栗豊後守忠順らと共に 条約批准の為の渡米を果たした。正興は外国奉行と神奈川奉行を兼帯。幕府の要人を務めながら、白旗神社の興隆にも尽力したと伝えられている。
【御祭神】
 源義経公(みなもとのよしつねのみこと)他2柱、天照皇大御神、豊受姫命
【御祭事】
 初 詣   1月随時
 祈年祭   四月十一日
 夏越し大祓 六月最終日曜日
 例大祭	  九月二十八日
 七五三詣  十一月随時
 新嘗祭	  十一月二十八日
 年越し大祓 十二月三十日
慰霊塔と参道階段左下の遥拝所、長い時間、熱心にお祈りする人がいました。
桜の蕾が膨らんでいる。今週の暖かさで一気に開花しそうだ。

子母美の森霊園の駐車場から入ってすぐにあるお堂
子母美の森霊園の入口
臨済宗円覚寺派永谷山東福寺の本堂
国道1号線側からの階段と左右の標石柱
白壁の塀と小道、平戸白幡神社に続く鎌倉古道と思われる。
 「寶所在近」「貴方の寶は近くにありますよ」ということ。寺紋は源氏の「笹りんどう」です。
本堂を横からみたところ、左手が国道1号線、奥が平戸白旗神社、鬼瓦にも笹りんどうの寺紋。

りーふ東戸塚近くの丘の上からみた雄大な富士山
コイト電工(小糸工業)の元横浜工場の跡地では7棟のマンション建設工事が進んでいる。
梅の花を前景にした白い富士山(霊峰富岳)I love JAPAN !