2月21日午前中に町内会館で開催れた会合の後、戸塚区平戸町302にある「平戸白旗神社」に立ち寄りました。
平戸白旗神社は、GHを除く各事業の事業所及び法人本部事務所の所在地である平戸地区の鎮守様です。
昨年5月17日の「りぼん東戸塚」の新築移転工事の地鎮祭には、ここの神主さんに奉祀して頂いています。
今回は、移転新築の無事完了のお礼と法人の各事業の運営の無事を祈願して参りました。
社頭の「平戸白旗神社沿革の碑文」(※一部改変)によると、
「御祭神 源頼朝命(みなもと よりとも のみこと)、例祭日 9月18日(宵宮祭 9月17日)
氏子区域 旧平戸町全域 即ち 現平戸町及び平戸1丁目-5丁目 」
※もとは鎌倉郡永谷村永谷山東福寺鎮守白旗大明神ですが、江戸時代には平戸村の鎮守となっており、東福寺の住所表記は平戸町299です。
※東戸塚駅近くの「品濃白旗神社」の御祭神は源義経命と天照皇大御神・豊受姫命です。白旗(白幡)神社は全国で88社、うち源義経公を祀るのは8社とのことです。
「由 緒 当神社は、源頼朝公薨じて103年後の乾元元年(紀元2922年西暦1302年)9月9日鎌倉鶴岡の相承院の前住元智が勧請したもので明和6年(紀元2429年西暦1769年)10月14日には相承院を通じ、みたましろとして[右大将家(頼朝公)の御髪髭三筋」を送られた。(東福寺所蔵文書) 東福寺の神事奉仕は創祀以来凡そ570年に及んだ。東福寺の鎮守として発足した当神社は、江戸時代には平戸村の鎮守となり(新編相模風土記)明治6年(紀元2533年西暦1873年)11月10日には村社、昭和14年9月20日には幣帛供進村社となったが大東亜戦争後の昭和28年9月15日に県知事の認証を受け新発足して宗教法人となり、神徳いよいよ明らかである。因みに現社殿は新築され昭和7年4月10日竣工したものである。昭和51年屋根葺替起工、4月2日完成 平成2年11月 御大典奉祝記念 として玉垣築造 氏子総代会 」
また、[神社ホームページの説明文]によると、
[源頼朝公は鎌倉幕府の創立者。久安三年(1147)源義朝の三男として出生し、平治の乱の後に捕らえられて伊豆にながされた。1180年平氏追討の兵を挙げたが、石橋山の戦いに敗れ海路安房に逃れた。
その後、房総、武蔵の武士を束ねて相模に入り、鎌倉に本拠を定めた。朝廷から正式に東国の支配権の許しを得、平氏を壇ノ浦に全滅させ、反幕府勢力を一掃して鎌倉幕府を成立させた。
正治元年(1199)正月十三日、病のため逝去。御年五十三歳。
平成十二年(1999) 源頼朝公没後八〇〇年の記念行事が鎌倉を中心に全国で行われた。
当神社に隣接する東福寺に寺宝として一通の古文書が収納されています。その所蔵文書は明和六年(1769)の送り状で次のように書かれています。
鎌倉郡永谷村永谷山東福寺鎮守白旗大明神は
乾元元年(1302)九月九日
鶴岡相承院先住元智「智円の前名」の時の勘請なり
今般右大将家御鬢髪三筋相送候
此度東福禅寺慶厳の希望に因る者也
明和六年(1769)十月十四日
鶴岡相承院 密信 花押
東福禅寺 慶岩和尚
そして、いまひとつ二重の桐箱があり、なかに縦7センチ、横2センチの金襴の袋が収められており、表書きには「頼朝公遺髪三筋」と記されています。
白旗大明神「白旗神社」は東福寺と永谷村の鎮守として智円がこの地に勧請(神仏の分霊を請じ迎え祭ること)したのは、鎌倉時代の末期、頼朝公が逝去されてより約百年後のことでした。
相承院は、鶴岡八幡宮寺の本尊につかえて天下の安穏を祈り、社役をつとめる二五坊のなかでも有力な寺院で、応永三十三年(1427)には、頼朝公の持仏堂で、のち頼朝公の遺髪を安置する法華堂を管理し、祈祷の役に任じました。
白旗神社を勧請した智円(1285〜1366)は相承院七世として三十四年間奉供しており、慶巌和尚の懇請によって二十四世密信が頼朝公の御遺髪を白旗大明神の御神体として送ることができたのは、法華堂の管理をまかされていたことによるものと考えられます。
「新編相模風土記稿」には「遺髪一屯、頼朝公逝去の日、蓬髪して持仏堂に納めしと云う。白毛少しく交じりてあり」と記されています。]























